宋書卷五十二 列傳第十二 謝景仁

謝景仁

陳郡陽夏の人、衛将軍謝晦の従叔父にあたる。名は高祖と同じであったため諱み、字で呼ばれた。太傅謝安の第二弟の子で、父允は宣城内史。景仁は幼い頃から安に見知られていた。初め前軍行参軍・輔国参軍事となる。会稽王世子元顕の嬖人張法順は当時権勢一時を傾け、内外の官はみなその門を訪ねたが、景仁だけは訪ねなかった。30歳でようやく著作郎となった。桓玄が元顕を誅した際、景仁を見て深く知り、四座に「司馬庻人(元顕)父子はどうして敗れなかったのか、結局謝景仁は30歳になってようやく著作郎になったのだ」と言った。玄が太尉になると景仁は行参軍に補せられ、大将軍府に転じ参軍事を兼ね、玄が楚台を建てると黄門侍郎に補せられ、簒位に及ぶと驍騎将軍を領した。景仁は博聞強識で前言往行を叙するのに巧みで、玄は常にこれと語り倦むことがなかった。玄が出行する際、殷仲文・卞範之らはみな騎馬で散従したが、景仁だけは輦に陪した。

高祖が桓修の撫軍中兵参軍であった頃、かつて景仁を訪ね事を諮ったが、景仁は語り合い喜んで高祖を留めて共に食事しようとした。食事がまだ調わぬうちに景仁は玄に召された。玄は性急で、少しの間に何度も召しの使者が続いたが、高祖はしばしば辞去を求めても景仁は「主上(玄)への対応にはやり方があるはずだ。私は客と食事を共にしたい、どうして待たずにいられよう」と許さず、座り続けて満腹してから応召した。高祖はこれに深く感じ入った。京邑平定後、高祖が石頭に入鎮すると景仁は百僚とともに高祖に見えた。高祖は景仁を見て「これぞ名公の孫だ」と言い、景仁に「承制府には記室参軍が必要だ、今あなたにお願いしたい」と言い、大将軍武陵王遵の記室参軍とし、のち従事中郎に転じた。司徒左長史に遷り、高祖の鎮軍司馬に出て晉陵太守を領し、再び車騎司馬となった。義熙5年(409年)、高祖は内難が既に治まったのを機に外略を弘めようと鮮卑討伐を計画したが、朝議はみな不可とした。劉毅は当時姑孰に鎮しており固くこれを止めた。高祖も苻堅が国境を侵した際、謝太傅(謝安)ですら自ら出征しなかったこと、宰相が遠出すれば根本を傾動させることを考慮していたが、景仁だけは「公は桓文(桓公・文公)の烈を建て、天人の心に応じ皇祚を匡復し姦逆を芟夷している。業は古を凌ぐほど高いが徳刑がまだ十分に信を得ていない、亡を推し存を固くし、広く威略を樹てるべきだ。鮮卑は疆甸に密邇し辺垂をしばしば犯している。罪を伐ち民を弔うのは今この時である。平定の後、兵を養い徒を息め、兵を洛汭に観じ園寑を修復すべきであろう、どうして座して寇虜を長じ敵を縦にして患いを残すことがあろうか」と述べ、高祖はこれを納れた。

北伐に際し、大司馬琅邪王(のちの少帝)は天子の母弟で儲副(皇太子の地位)にあたる立場にあり、高祖は根本を憂い、景仁を大司馬司馬に転じ府事を専ら総べさせ、右衛将軍・給事中を加え、のち吏部尚書に遷った。時に従兄の混が左僕射であったため制により相臨むことができなかったが、高祖は僕射王彪之・尚書王劭の前例に依り解職しないよう啓した。選挙で吏部令史邢安泰を都令史・平原太守の二官に共に除した件で、安泰が令史の職のまま陵廟に拝謁したことを御史中丞鄭鮮之に糾され、景仁は白衣のまま職を領した。8年(412年)、領軍将軍に遷り、11年(415年)、右僕射に転じ、ついで左僕射に転じた。景仁の性は矜厳で整潔、居宅は静麗、唾を吐くたびに左右の人の衣に受けさせ、事が終わると一日に一度水で洗わせた。唾を吐こうとすると左右が争って受けようとしたという。高祖は雅にこれを重んじ、婚姻を結び廬陵王義真の妃は景仁の娘であった。12年(416年)卒、時に47歳。金紫光禄大夫を追贈され散騎常侍を加えられた。葬の日、高祖は自ら臨んで哭し甚だ哀慟し、驃騎将軍道憐への書に「謝景仁が亡くなり悲痛は摧け割れるようで自ら勝(た)えられない。汝がこの知らせを聞けば驚愕もまた堪え難いだろう。その器量は淹中(深く広い)で情の寄せ所は実に重かった、ともに時務を康めようとしていた矢先にこうなるとは、痛惜はますます深い。逝ってしまった、どうしようもない、どうしようもない」と記した。子の恂は鄱陽太守。恂の子穉は笙を吹くのを善くし西陽太守に至った。