宋書卷四十九 列傳第九 虞丘進

出自と初期の戦功

虞丘進は字を豫之といい、東海剡の人である。若くして謝玄に従い苻堅討伐に功があり関内侯に封ぜられた。隆安年間、高祖の孫恩征討に従い句章城を守り数十日包囲され連日戦い身に数創を受けた。余姚呵浦で賊張驃を破り退けて海塩の故治・婁県に至り、蒲濤口で孫恩と水戦し重創を受けながらも恩を鬱州まで追い、さらに石鹿頭に至って海塩・大柱に還り頻戦の功があった。元興元年(402年)、高祖の臨海東征に従い石歩で盧循と20余日対峙。2年(403年)、東陽に従い徐道覆を破り、同年臨松穴に至り賊を破り永嘉千江まで追撃、さらに安固で累戦し功があった。3年(404年)、京城平定・京邑平定に従い燕国内史に除せられた。義熙2年(406年)、龍驤将軍に除せられ龍川県五等侯に封ぜられ、高祖の広固討伐に従い臨朐で賊を破った。

献策と最期

盧循が京邑に迫った際、孟昶・諸葛長民らが天子を奉じて渡江するよう建議した廷議で、進はこれに反対し昶らを面折、高祖は大いにこれを嘉した。石頭に樹柵を献策した。鄱陽太守(将軍は元のまま)に除せられ、馬歩18隊を統べて東道から鄱陽に出て五畝嶠に至った。循の将英紏が上饒令となり千余人で故城を守っていたが、進はこれを攻め破った。循はまた童敏之を鄱陽太守として郡に拠らせたが、進は餘干から歩道で鄱陽に趣き敏之は退走、これを追撃破り数百を斬った。また劉藩に従い始興に至り徐道覆を討ち斬った。8年(412年)、寧蛮護軍・尋陽太守に除せられ文武を領した。12年(416年)劉毅討伐に従軍、事平定後太尉行参軍に補せられ振威将軍を加えられた。9年(413年)、前後の功で望蔡県男・食邑500戸に封ぜられ、龍驤将軍を加えられた。司馬休之討伐にも戦功があり、軍還後輔国将軍・山陽太守に除せられた。宋台令書により秦郡太守に除せられ陳留郡事を督し(将軍は元のまま)、元熙2年(420年)、宋王令書により高祖の第四子義康の右将軍司馬となった。永初2年(421年)、太子右衛率に遷り、翌年官にて卒、時に60歳。司馬休之討伐の功を追論され子に爵を進められ食邑300戸を加えられた。子の耕が嗣ぎ、耕没後子の襲祖が嗣ぎ、襲祖没後世宝が嗣いだが斉の受禅で国は除かれた。

史論

史臣曰く、『詩』に「言に酬いざる無く、徳に報いざる無し」とある。この諸将はみな微賤の出で皁隷芻牧の身分から立ち上がったが、ただ心を主君に一途に捧げたゆえに翼を奮い立たせることができた。鋒を推し戦いを転じ百死してなお顧みぬに至ったのも、その心が一つであったからで、ついに封侯の報いを受けた。詩人の言葉はまことである。