宋書卷四十八 列傳第八 傅𢎞之
出自
傅𢎞之は字を仲度といい、北地泥陽の人である。傅氏はもと霊州に属したが、漢末に郡境が虜に侵され土地を失い馮翊に寄寓、泥陽・富平の二県が置かれ霊州は廃されたため、傅氏はみな泥陽に属した。晋の武帝太康3年(282年)、霊州県が再建され傅氏は霊州に属したが、𢎞之の高祖(晋の司徒祗)は霊州公に封ぜられたのち、本県を封ずることを望まなかったため、祗の一門はまた泥陽に戻った。曾祖暢は秘書丞で胡に没し子の洪をもうけた。晋の穆帝永和年間、胡乱がおさまり洪は帰還、洪は韶(梁州刺史・散騎常侍)を生み、韶は𢎞之を生んだ。
経歴と最期
𢎞之は若くして大志を抱き、本州の主簿となり秀才に挙げられたが赴任しなかった。桓玄が簒位しようとした際、新野の人庾仄が南陽で挙兵し雍州刺史馮該を襲い、該は敗走した。𢎞之は当時江陵にいて仄の兄子彬と謀り荆州刺史桓石康を殺して仄を荆州刺史に迎えようとしたが、彬の従弟宏がこれを密告し、石康は彬を捕らえて殺し、𢎞之を獄に繋いだ。桓玄は𢎞之が謀の首謀者でなく、また無位無兵の白衣であるとしてその罪を問わなかった。義旗(高祖挙兵)の後、輔国将軍道規の参軍となり、寧遠将軍・魏興太守となった。盧循の乱に際し、桓石綏が洛甲口から自ら荆州刺史を称し、徴陽令王天恩が自ら梁州刺史を称して西城を襲った際、韶が梁州にいて𢎞之を遣り石綏らを討たせ、いずれも斬った。太尉行参軍に除せられ、司馬休之討伐に従軍、後部賊曹に任ぜられ、のち建威将軍・順陽太守となった。
高祖の北伐に𢎞之は扶風太守沈田子らと共に七軍を率い武関から入り、偽の上洛太守を敗走させ、藍田に進んで戎晋(異民族と晋人)を招き懐かせ、晋人龎斌之・戴飬、胡人康横らがそれぞれ部落を率いて帰化した。𢎞之は騎乗を善くし、高祖が長安に至った際、𢎞之は姚𢎞の馳道で軽装で馬を戯れさせ、往復二十里の間、馳せたり駆けたりして大いに趣があり、見物する羌胡は数千人にのぼり皆驚嘆した。初め馬に乗る際、鞭の柄で両股の内を策打ち、馬から下りても柄の穴が残っていたという。桂陽公義真の雍州治中従事史に進み、西戎司馬・寧朔将軍・畧陽太守に除せられた。徐師高が反乱すると𢎞之はこれを討ち平らげた。
高祖が帰還した後、佛佛の偽太子赫連瓌が3万の衆を率いて長安を襲うと、𢎞之は歩騎5千を率いて池陽で大破し殺傷は甚だ多かった。瓌はまた渭南を掠奪したが、𢎞之は寡婦人渡で瓌を破り、賊300を捕え7千余口を奪還した。義真が東帰する際、佛佛は国を挙げて追撃し青泥で大戦、𢎞之は自ら甲冑を貫いて奮戦し気は三軍を圧したが、軍は敗れ𢎞之は陥没した。佛佛は降伏を迫ったが𢎞之は屈せず、時は寒く裸にされたが𢎞之は叫び罵り殺された。時に42歳。
史論
史臣曰く、三代の盛時には畿服に等差があり、東は漸化し西は被うも遺す所なく、遐荒に及んだ。漢の代に至って土を開き通訳を置き、四方の風教の浅深優劣はすでに遠く隔たった。晋室が南に播遷して揚越に宅した後、関朔は遥かに阻たれ、隴汧は遐荒の区甸となり、内外を分かち山河が表裏を分けた。羌戎は雑居し久しく声教を絶していたので、荒服として羈縻するのが適切であった。もし彼らが道を懐い威を畏れ王に仕えて職を受けるなら書軌を通じ王規を班つべきであり、もし険阻を恃んで屈強に辺垂に拠るなら険を距て関を閉じその寇暴を防ぐべきである。桓温は一世の英傑で、晋の鼎を移そうとしたが、西湖での兵の屈、枋頭での戦の衂(敗北)がなければ、光宅の運は中年にして集まったであろう。高祖には周世の累仁の基がなく、力を以て四海に君臨しようとしたため、外に武功を積んで天下の人望を収める必要があった。ただ龍門に旆を掲げ冀趙で衝を折るにとどめ、桓氏が高きを取った昔、人の地はいまだ東晋に開かれず威は独り江南に振るったが、その後に国情を変え民志を柔らげ帰運を撫し宝策に膺るべきであったのに、秦川(関中)の供養が百二の険を伝えるに足りないことを知らなかったわけではあるまい。咸陽を挙げてこれを棄てたのは失策ではない。この四将(齡石・超石・脩之・𢎞之)は帰る衆の固めがたい情勢にあって、ついに皆陥落したのは不幸というべきである。