宋書卷四十八 列傳第八 朱超石
朱超石
朱超石は齡石の弟で、果敢で騎乗を善くした。将家の出でありながら兄弟ともに文書にも通じていた。桓謙が衛将軍のとき行参軍として仕え、また何無忌の輔国右軍軍事に参じた。徐道覆が何無忌を破った際、超石はその場に居合わせたが、石頭で同舟の者を説いて単舸で高祖のもとに逃げ帰った。高祖は大いに喜び徐州主簿とした。超石は桓謙を迎え自ら喪を営んだ。車騎参軍事・尚書都官郎を経て中兵参軍・寧朔将軍・沛郡太守となる。劉毅西伐の際、超石は歩騎を率いて江陵に出たが、至る前に毅は平定された。司馬休之討伐では冠軍将軍檀道済とともに大簿に出兵、魯宗之は超石が来ると聞き自ら軍を率いて迎え撃とうとしたが、戦わぬうちに江陵は平定、超石は襄陽まで進み新野太守を領し、宗之を南陽まで追って還った。
義熙12年(416年)の北伐で超石は前鋒として黄河索地に入った。索虜(北魏)の托跋嗣(姚興の婿)は弟の黄門郎鵞青・冀州刺史安平公乙旃眷・襄州刺史托跋道生・青州刺史阿薄干らに歩騎10万を与え黄河北岸に駐屯させ、常時数千騎が河沿いに大軍の進退をうかがっていた。宋軍が黄河南岸で百丈の縄で船を牽こうとした際、急流に流されて北岸に漂着した者は虜に殺され、軍を出して救おうとすると虜は退いた。軍が去るとまた戻ってくるので、高祖は白直隊主丁旿に700人と車100輌を与え、黄河北岸の水際から百歩の地に却月陣(半月形の陣)を築かせ、両端を河に接するようにして車を据え、武器を配備した。作業が終わって白い旄旗を立てると、虜は数百人の歩兵が車を牽いて陣を作るのを見ても意図が分からず動かなかった。高祖は超石に急ぎ駆けつけさせ、大弩百張(1台に20人を増員し、轅の上に彭排〔盾〕を設けた)を携えさせた。虜は陣が完成すると包囲攻撃を開始、超石はまず軟弓と小箭で応じたが、虜は兵力に任せて四方から迫った。托跋嗣はさらに南平公托跋嵩の3万騎を送って肉薄させたので、宋軍は百弩を一斉に発射し、善射者を選んで矢を射かけた。虜は多勢で制しきれず、超石はあらかじめ用意していた大鎚と千余張の矟(ほこ)を長さ3~4尺に断ち切って鎚で打ち込ませたところ、一矟で虜3~4人を貫き、虜衆はこれに耐えられず一時に潰走した。陣中で阿薄干の首を斬り、虜は平城に退いた。超石は胡藩・劉栄祖らとこれを追撃したが再び虜に囲まれ、終日奮戦して千を数える虜を殺し、ようやく虜は退いた。
高祖はまた振武将軍徐猗之に5千を与え越騎城に向かわせたが、虜は猗之を長戟の陣で包囲、超石が駆けつける前に敗走していた。大軍は蒲坂を攻略し、超石を河東太守として守らせたが、賊は超石の兵が少ないのを見て再び攻めてきて、超石は敗れて退き、数日で大軍に合流した。高祖が長安から東還する際、超石はしばしば水路で彭城まで送った。中書侍郎に除せられ興平県五等侯に封ぜられた。関中が擾乱した際、高祖は超石を派して河洛を慰労させたが、蒲坂に至ったところで齡石が長安から東走して曹公塁に至ったのに遭い、超石は黄河を渡って合流、齡石とともに佛佛(赫連勃勃)に殺された。時に37歳。