宋書卷四十七 列傳第七 檀祗
檀祗
檀祗、字は恭叔、高平金郷の人、左将軍歆の第二弟。若くして孫無終の輔国参軍となり、無終に従い孫恩を東征しばしば戦功があった。のち王誕の龍驤参軍となり高祖に従い京城を克し建武軍事に参じ、羅落に至って檀馮之が戦死した後はその所領の兵を配された。京邑平定後、鎮軍事に参じ振武将軍を加え、振武大将軍道規に隷して桓玄を追討し戦うごとに勝利した。江陵平定後、道規は祗を遣わし溳沔の亡命者桓道児・張靖・苻嗣らをことごとく平定させた。龍驤将軍・秦郡太守・北陳留内史を除せられ、さらに寧朔将軍・竟陵太守(不拝)となり、桓亮を長沙で、苻宏を湘東で破った。武陵内史庾恱が病に伏すと道規は祗を代えて任じ寧朔将軍を加え西昌県侯・食邑千戸に封じた。
義熙5年(409年)、中書侍郎に入り、盧循が京邑に迫ると輔国将軍を加えられ兵を領して西明門外に屯した。循が退走すると祗は所領を率いて歩道から江陵を援けようとしたが、出発前に疾に罹り停止した。義熙8年(412年)、右衛将軍に遷り、輔国将軍・宣城内史に出、本号のまま督江北淮南軍郡事・青州刺史・広陵相を加えられ、征虜将軍に進号し節を加えられた。
義熙10年(414年)、亡命司馬国璠兄弟が北徐州の境から数百人を集め淮を越え、夜陰に乗じて百許人を率いて広陵城の壁沿いに侵入、叫喚しながら直ちに庁事へ上がった。祗は驚いて起き門を出て対応を指示しようとしたが賊に射られ傷を負い引き返した。祗は左右に「賊は闇に乗じて侵入し我らの不備を突こうとしている。ただ五更の鼓を打て、暁になれば必ず逃げるだろう」と語った。賊は鼓の音を聞き暁だと思い奔散し、追討して百余人を殺した。祗は建武将軍に降号された。義熙11年(415年)右衛将軍に進号、義熙12年(416年)高祖の北伐に際し、亡命司馬(欠字)が涂中(滁中とも)に侵寇し秦郡太守劉基が救いを求めると、祗は軍を分けて掩討しこれを破り斬った。
義熙14年(418年)、宋国初建の際、天子は詔で「宋国は始めて立ち内外は草創の状況、禁旅(禁軍)の統括は要職であり才ある者が必要である。右将軍祗を宋の領軍将軍とし散騎常侍を加えるべし」とした。祗の性は矜豪で外での放恣を楽しみ、内遷(中央への異動)を望まなかったため甚だ得意でなく発病しても治療しなかった。その年、広陵で卒去、享年51。散騎常侍・撫軍将軍を追贈され諡は威侯。子の献が嗣ぎ元熙中に卒去、子がなかったため祗の次子朗が跡を継いだ。朗の卒後、子の宣明が嗣ぎ、宣明の卒後子の逸が嗣いだが斉の受禅により国は除かれた。
史論
史臣曰く、劉敬宣は高祖と恩を結び龍旂(義兵)を義分の早くから合わせたが、興復(晋室復興)の始めには事が行き違い、逢迎する機会は隔たっていたにもかかわらず、深く期する長年の盟約は少しも違うことがなかった。しかし隆盛な任は義においては人が存する間にとどまり、飾終(死後の栄誉)の数(礼遇)はその身後に聞こえることがなかった。恩礼の厚薄には、思うに理由があるのだろう。