宋書卷四十七 列傳第七 孟懐玉

孟懐玉

孟懐玉、平昌安丘の人。高祖珩は晋の河南尹、祖父淵は右光禄大夫、父綽は義旗の後に給事中・光禄勲となり金紫光禄大夫を追贈された。代々京口に住んだ。高祖の孫恩東征に懐玉は建武司馬として義旗に加わり、京城平定に従い京邑平定に功があり、鄱陽県侯・食邑千戸に封ぜられた。高祖が京口に鎮すると懐玉は鎮軍参軍・下邳太守となった。義熙3年(407年)、寧朔将軍・西陽太守・新蔡内史に出、中書侍郎を除せられ輔国将軍・領丹陽府兵に転じ石頭を戍った。盧循が京邑に迫った際、懐玉は石頭の岸で連戦して功を挙げ中軍諮議参軍となった。賊帥徐道覆はしばしば精鋭を岸に上げようとしたが懐玉を畏れて上がれなかった。循が南走すると懐玉は衆軍と共に追撃し嶺表まで至った。徐道覆が始興に屯結すると懐玉はこれを包囲攻撃、自ら矢石に当たりながら旬月かけて陥落させ、さらに循を南追して平定、陽豊県男・食邑二百五十戸に封ぜられた。

太尉諮議参軍・征虜将軍に復し、義熙8年(412年)江州刺史に遷り、まもなく督江州豫州之西陽新蔡汝南潁川司州之松滋六郡諸軍事・南中郎将・刺史はもとのまま加えられた。当時荊州刺史司馬休之が上流にあって異志を抱いていたため、懐玉にこの任を授けて防がせたのであった。義熙11年(415年)持節を加えられたが父の喪に遭った。懐玉は孝性があり篤疾を抱えつつも上表して解任を願ったが許されず、また弟仙客が喪主を出継しているため自分だけが留任を望むと陳べたが聞き入れられず、赴任を離れないまま同年、官にあって卒去、享年31。平南将軍を追贈された。子の元は卒去し子がなかったため国は除かれた。懐玉は別に陽豊男を封ぜられており、子の慧熙が嗣いだが祭祀を廃した罪により爵を奪われ、慧熙はすでに宗嗣として竟陵太守・中大夫となっていた。

孟龍符

龍符は懐玉の弟。驍果で胆気があり幹力は人に絶していた。若くして遊侠を好み閭里の客を結んだ。早くから高祖に知られ、京城克復後、龍符は建武参軍として江乗・羅落・覆舟の三戦いずれも功があり、鎮軍軍事に参じ平昌県五等子に封ぜられ寧遠将軍を加え淮陵太守となった。劉藩・向弥と共に桓歆・桓石康を征し斬り、建威将軍・東海太守に除せられた。索虜の斛蘭・索度真が辺境を侵し彭沛が騒乱した際、高祖は龍符と建威将軍道憐を遣わし北討させ、一戦でこれを破り斛蘭を光水溝まで追撃したが、負傷して逃走した。

高祖の広固征討に龍符は車騎将軍・龍驤将軍加官・広川太守となり歩騎を統べ前鋒となった。軍が臨朐に至り賊と水を争った際、龍符は単騎で突撃し瞬く間に賊を打ち破り水源を制圧、賊は退走した。龍符は勝ちに乗じて追撃したが後続の騎兵が追いつかず、賊数千騎に包囲攻撃された。龍符は矛を奮って接戦、一合ごとに数人を殺したが衆寡敵せず戦死した。享年33。高祖は深く痛悼し青州刺史を追贈、さらに上表して「故龍驤将軍広川太守孟龍符は忠勇果毅、王事に身を落とした、旌表を蒙り貞節を顕彰すべき」として方州(州刺史)を追贈するよう求めた。龍符は義兵の初めより身を投じ前駆として命を捧げ、三度の勝利で常に衆に先んじ、西で桓歆を討ち北で索虜を滅ぼした際にも爵賞がまだ行われないうちに今回の北伐で再び前軍を統べ、臨朐の戦では気迫は三軍に冠たるものだったが、逆徒が繁く控弦の兵が沢を掩う中、龍符は匹馬で電のごとく躍り向かうところ皆摧靡させ、戈を奮って深く入り死を惜しまなかった、賊が険に依って鳥のように集まる中で大軍がこれに乗じて長駆できたのはその功績によるものであり、爵土を班じてその勲烈を褒めるべきとし、臨沅県男・食邑五百戸を追封された。

子がなかったため弟仙客の子微生が嗣封したが、太祖元嘉中に罪により爵を奪われ広州に徙された。微生の弟彦祖の子仏護が爵を襲ったが斉の受禅で国は除かれた。孝武帝大明初め、諸流徙者はことごとく本籍への帰還を許され、微生はすでに死んでいたためその子係祖が京都に帰った。係祖は筋骨が異人並みで数人分の重さを担げるほどの膂力があり、羽林に入隷し殿中将軍となった。大明2年(458年)、索虜が青冀を侵すと世祖は軍を遣わして援け、係祖は自ら志願して従軍、杜梁で戦い自ら陣に突入し殺した敵は数多く、遂に戦死した。詔により潁川郡太守を追贈された。