周書卷四十七 列傳第三十九 姚僧垣

姚僧垣

  • 姚僧垣、字は法衛。吳興武康の人、呉の太常姚信の八世孫。曾祖の郢は宋員外散騎常侍・五城侯、父の菩提は梁高平令で長患いから医薬に通じ梁武帝にも重んじられた。僧垣は幼くして通洽で喪に礼を尽くし、二十四歳で家業を継ぎ梁武帝に召され対応に滞りなく才を認められ、大通六年臨川嗣王国左常侍から起家、大同五年驃騎廬陵王府田曹参軍、九年殿中医師。武陵王の生母葛修華の長患いを他医が治せぬ中僧垣が診て的確に病状を説明し梁武帝に「用意綿密、この見立てに疾病が逃れられようか」と嘆賞された。十一年大医正・文徳主帥・直閤将軍。梁武帝の発熱時大黄の服用を「年高ゆえ軽々には」と諫めたが聴かれず病状悪化。梁簡文帝にも厚遇された。太清元年鎮西湘東王府中記室参軍。侯景の建業包囲時妻子を棄て難に赴き梁武帝に嘉され戎昭将軍・湘東王府記室参軍、宮城陥落後呉興太守張嶸を頼ったがまもなく景軍に城を落とされ捕らわれ、景の将侯子鑒に器量を認められ免れた。梁簡文帝嗣位で中書舎人兼務、子鑒の広陵鎮守に伴い江北に随行、梁元帝の侯景平定後荆州に召され晉安王府諮議、混乱した政治を憂い故人に「近関(西魏帰順)が上策」と語り笑われた。梁元帝の心腹の疾に他医は平薬を勧めたが僧垣は大黄を用いるべきと診断しその通り快癒、一当十銭で十万(実質百万)を賜与。西魏軍の江陵攻略後も梁元帝の側を離れず、軍人に阻まれ泣く泣く去り、中山公護(宇文護)に召され于謹の営でも重んじられ、太祖の徴召にも謹が「老いと持病を癒す為この人が必要」と固辞し引き留めた。翌年謹に従い長安入り、武成元年小畿伯下大夫・金州刺史。伊婁穆・賀蘭隆・竇集・叱伏列椿ら要人の重病を的確に治療した逸話が多く語られ、天和元年車騎大将軍・儀同三司、建德三年文宣太后の病で髙祖に諸医と異なる見解を問われ「常人ならぬ憂慮あり」と答え太后崩御、その後髙祖に「儀同となって幾年か」と問われ「九載」と答えると驃騎大将軍・開府儀同三司、高齢を理由に朝謁免除の勅も受けた。四年髙祖の東征中の重病(言語障害・目の麻痺・片足萎縮)を諸病並治せず順に治療し完治させ華州刺史、宣政元年致仕を願い許されたが髙祖の病で再召、宣帝の心痛も治し即位後厚遇され「姚公」の呼称の由来を問われ「尚齒の辞」と髙祖から説明を受け長壽県公・食邑千戸に封じられた。大象二年太医下大夫、髙祖崩御に際し隋公(楊堅)に「今日の性命はこの人に委ねる」と言われ、静帝嗣位で上開府儀同大将軍、隋開皇初北絳郡公、三年八十五歳で卒し薄葬を遺言、荆湖三州刺史を追贈された。医術は当代随一と称され集験方十二巻・行記三巻を著した。長子の察は江南に残った。

姚最

  • 次子の最、字は士㑹。聡敏博通で著述を好み、十九歳で僧垣に従い入関、世宗の麟趾殿での学徒召集に学士として参加、齊王憲府水曹参軍・記室事で憲に重んじられた。宣帝嗣位で憲が誅されると隋文帝の代に憲の功績を伝として史局に送った。医術は江左育ちで未修だったが天和中齊王憲の奏で髙祖より習うよう命じられ、憲に「王褒・庾信に劣らぬ才、勉励せよ」と諭され家業を受け十数年で妙を極め治療の効験多数。隋文帝践極で太子門大夫、父の憂で去官哀毀骨立、免喪後北絳郡公襲爵・太子門大夫、蜀王秀の友・府司馬。陳平定後兄の察に嫡でないとして封を譲った。秀が謀反を疑われた際開府慶整・郝偉らが罪を秀に帰したが最独り「不法はすべて自分の仕業、王は関与せぬ」と主張し数百回の拷問にも言を変えず六十七歳で誅された。世は最の義を評した。梁後畧十巻を著し世に行われた。