周書卷四十五 列傳第三十七 盧誕

儒林総説

  • 経術は聖王が範を示した学であり、時代により盛衰したが、太祖(宇文泰)は魏晋の制度を退け周礼の古制を復興、盧景宣(盧光)は五礼を、長孫紹逺は六楽を整えた。世宗は崇文館・国学を重んじ学者が朝廷に集まり、髙祖保定三年には太傅燕公を三老として親しく礼を尽くし、沈重を南荊から、熊安生を山東平定後に招くなど儒者を厚遇した結果、天下に儒教の風が広まった。ただし遺風は魏晋に及ばずとも近代の美事であり、以下に伝を欠く者を除き諸儒の事跡を録す。

盧誕

  • 盧誕、范陽涿の人。本名は恭祖。曽祖の晏は燕に仕え給事黄門侍郎・営丘成周二郡守、祖の壽は燕の太子洗馬、燕滅亡後魏に仕え魯郡守、父の叔仁は州辟主簿・秀才から員外郎、親の老いを理由に辞職し孝行で知られ隠棲を望んだが魏景明中召され威遠将軍・武賁中郎将、鎮遠将軍・通直散騎常侍を辞し幽州司馬も辞し高尚と称された。誕は若くして通亮博学で文才あり、郡辟功曹・州挙秀才を辞し侍御史から起家、輔国将軍・太中大夫・幽州別駕・北豫州都督府長史。高仲密の帰附に大将軍李逺の援軍に従い功をたて鎮東将軍・金紫光祿大夫・固安県伯・食邑五百戸、散騎侍郎・給事黄門侍郎。魏帝の詔で諸皇子の師となり誕の名を賜与、征東将軍・散騎常侍、太祖にも儒宗と推され国子祭酒・車騎大将軍・儀同三司、魏恭帝二年祕書監、後病で卒した。