周書卷四十四 列傳第三十六 任果

任果

  • 任果、字は靜鸞。南安の人。世々方隅の豪族で江左に仕えた。祖の安は東梁益州別駕・新巴郡守・閬中伯、伯父の褒は龍驤将軍・新巴南安広漢三郡守・沙州刺史・新巴県公。果は勇決な性格で立功を志し、魏廢帝元年部下を率い帰附、太祖はその遠来を嘉し厚遇、蜀攻略の策を面陳し深く納れられ使持節・車騎大将軍・儀同三司・大都督・散騎常侍・沙州刺史・南安県公・食邑千戸。尉遲迥の蜀討伐に弟の岱・子の悛を従軍させ、益州未平定のため果も帰郷し郷兵二千人で迥に従軍、驃騎大将軍・開府儀同三司に進む。蕭紀の遣した趙拔扈らの三万の援軍を大軍と共に破り成都平定後始州刺史、まもなく入朝を願い、太祖はその方隅の首望・早い忠節を評価し安樂郡公・鉄劵(世襲許可)・路車駟馬・儀衞を賜与。まもなく刺客に害され享年五十六。

史論

  • 史臣は評す。古人は仁義について「常に踏み行えば君子、背けば小人」と言うが誠にその通りである。泉企は山谷に生まれ月旦の誉なきまま難に臨んで慷慨し人臣の節を守った、これこそ仁義を踏み行った者ではないか。元禮・仲遵はその志を継ぎ功業を成し、父の遺志を負う者と言えよう。李遷哲・楊乾運・席固の輩は方隅の擾乱の中で翻然と帰服し爵位を保ち終始を全うした。遷哲が太祖に答えた言葉には尚義の辞があり、乾運は武陵王(蕭紀)に仕えながらこれに背いた点で事人の道に乖くところがあり、両者の長短優劣は同列に論じ難い。陽雄は文武を兼ね名声が中外に著しく、志と能を兼ねた士と言えよう。