周書卷三十七 列傳第二十九 郭彦
郭彦(太原陽曲の人、先は関右に仕官し馮翊に居した)。西魏で軍功と地方官として活躍し、澧州刺史として蠻左を治め倉庾を充実させ、豫州鎮撫でも威信を著した。天和四年、任地で卒す。
出自と西魏での戦功
- 郭彦、太原陽曲の人。その先は関右に仕官し馮翊に居した。父胤は郡功曹・靈武令。彦は少壮より知られ、太祖の雍州臨牧の際、西曹書佐に辟され、まもなく開府儀同主簿を除せられ司空記室・太尉府屬に転じ虞部郎中に遷った。
- 大統十二年、初めて当州の首望を選び郷兵を統領させる制ができ、帥都督・持節・平東將軍を除せられ郎官に居て著称し龍門縣子(邑300戸)に封ぜられ、大都督に進み車騎大將軍・儀同三司・司農卿に遷った。この頃、岷州の羌酋傍乞鐵忽・鄭五醜らが西服を寇擾し、彦は大將軍宇文貴に従いこれを討平した。
- 魏恭帝元年、兵部尚書を除せられ本兵で柱國于謹の江陵南伐に従い、驃騎大將軍・開府儀同三司に進み邑500戸を増し伯爵に進んだ。六官建立で民部中大夫を拝した。
澧州刺史としての治績と豫州経略
- 孝閔帝踐祚で澧州刺史に出た。蠻左はなお生梗で朝憲に従わず賦税に違う者が多く聚散無常で農業を営まなかったが、彦は耕稼を勧め遊猟を禁じ、民は皆本業に努め家に余糧が生じ亡命の徒も賦役に従うようになった。従来、澧州は糧儲乏しく荊州から輸送していたが、彦の治世からは倉庾充実し転輸の労はなくなった。
- 齊の南安城主馮顯が密かに使者を送り帰降を申し出たがその衆は知らなかった。柱國宇文貴は彦に応接を命じ、齊人はまず顯にその部の糧を南下させようとしたが、彦は衆が従わぬことを懼れ途中で邀撃、顯は自ら脱出し衆は拒戦、彦は兵を縦って奮撃し虜獲した。南安の無備に乗じて軍を進めて掩襲、顯の外兵參軍鄒紹は彦に捕らえられ郷導を請い、彦は夜に城下に至り紹に顯の帰還と詐称させ門者が開門したところを引兵して入城、城を得て3千余人を俘獲した。晉公護はこれを嘉し懐德縣公(邑1000戸)に進めた。南安が懸遠のためまもなく班師を命じ、任期満了で朝に還る際、民吏は号泣して200余里彦を見送った。
晩年と豫州鎮撫
- 東道大使として風俗を観省し蒲州總管府長史を除せられ、工部中大夫として入った。保定四年、宇文護の東討に彦は尉遲迥に従って洛陽を攻め、迥はまた彦に権景宣と共に汝潁へ南出させた。軍が豫州に次った際、彦は攻撃を請うたが景宣は城守が厳重で急には取れぬとして南へ転じ別に略を図ろうとした。彦は「奉命出師は大軍と相接すべき、江畔で功を立てるのは朝廷の本意でない」と固執して従わず攻取の計を画したところ、豫州刺史王士良の妻弟董遠秀が密かに帰款を送ってきたため景宣も従い、包囲すると士良は降った。彦は豫州鎮守となり邑600戸を増したが、まもなく洛陽班師によりこれも棄てて守らなかった。
- 純州刺史樊舍が卒し、その地は東は陳境に接し俗は蠻左を兼ね、州将を喪って境内が騒然としたため、朝議は彦の威信が東南に著れていることから鎮撫させた。彦が至ると吏人は畏れつつ愛した。天和元年、益州總管府長史を除せられ隴右總管府長史に転じ、四年、任地で卒した。小司空・宜鄜丹三州刺史を贈られた。