出自と魏末の官歴
- 李彦、字は彦士、梁郡下邑の人。祖父先之は魏の淮南郡守、父靜は南青州刺史。彦は少壮より節操あり学を好み古を慕い郷閭に敬憚された。孝昌中、奉朝請から出仕し輕車將軍を加えられ、魏孝武帝の入関に従い著作佐郎兼修起居注を兼ね、寧朔將軍を加えられ冠軍將軍に進み中散大夫、平東將軍・大中大夫に遷った。
西魏での官歴
- 大統初め、通直散騎侍郎を除せられ、三年、安東將軍・銀青光祿大夫・太保、太傅長史・儀曹郎中・左民郎中に転じた。十二年、三十六曹を省いて十二部とした際、民部郎中に改授され平陽縣子(邑300戸)に封ぜられた。十五年、中軍將軍を進号し尚書左丞兼領選部、大軍東討で持節・大都督・通直散騎常侍を加え留臺事を掌った。
- 魏廢帝初め、尚書右丞を拝し左丞に転じた。彦は尚書に15年あり、軍國草創で庶務は殷繁であったが心を留めて省閲を怠らず断決は流れる如く滞りなく、臺閣は皆その公勤を歎じ明察に服した。給事黄門侍郎に遷り左丞を兼ね、まもなく車騎大將軍・儀同三司に進み宇文氏を賜姓、鄜州刺史に出ようとしたが東夏未平を理由に固辞し詔で許された。兵部尚書を拝し驃騎大將軍・開府儀同三司を加え著作を兼ねた。六官建立で軍司馬に改授され伯爵に進んだ。
人柄と最期
- 彦の性は謙恭で礼節があり、顕要にあっても親黨との間では恂恂としていた。財を軽んじ義を重んじ施しを好み士を愛し、時論はこれを称えた。ただ元来病が多く、それでも職務に勤め、枕席に沈頓してもなお務めを理し続け、46歳で卒した。諡は敬。
- 臨終に子らへ「昔の人は窽木(くりぬいた木)を櫝(棺)とし葛虆(蔓)で緘した、下は泉に及ばず上は臭が漏れなかった、これこそ吾の平生の志であるが、矯枉に過ぎては世士に譏られよう、時服のまま瘠せた地に葬り明器・芻塗・儀衞などは用いぬように」と遺誡し、朝廷はこれを嘉しその志を奪わなかった。子の昇明が嗣ぎ少壮より顕職を歴任し、大象末には太府中大夫・儀同大將軍。