周書卷三十七 列傳第二十九 張軌

出自と賀拔岳・宇文氏への従仕

  • 張軌、字は元軌、濟北臨邑の人。父崇は高平令。軌は少壮より学を好み志識開朗で、洛陽にあった頃家貧しく樂安の孫樹仁と莫逆の友となり衣を易えて外出するほどであったため称された。
  • 永安中、爾朱榮に従い元顥を撃ち討寇將軍・奉朝請を除せられた。軌は親しい者に「秦雍の間に必ず王者が興る」と語り、爾朱氏敗後、策を杖いて入関した。賀拔岳は軌を記室參軍として機務を掌らせ、倉曹に転じ鎮遠將軍を加えた。穀糴が高騰した際、官倉から貸すよう請う者があったが、軌は「私を以て公を害するは吾が志にあらず、人の難を済うのを拒めようか」として自らの衣物を売って粟を糴い賑わせた。
  • 岳の死後、太祖は軌を都督とし侯莫陳悅討伐に従わせ、洛陽への使者となった際、領軍斛斯椿は「髙歓の逆謀は既に路人に伝わり人情は西を望んで日を年の如く思う、宇文と賀拔とどちらが優るか」と問うた。軌は「宇文公は文は経国に足り武は乱を定める、高識遠度は私の測るところではない」と答え、椿は「まことに卿の言う通り、頼みとするに足る」と評した。

西魏での官歴と清廉な晩年

  • 太祖が行臺となり軌に郎中を授けた。魏孝武帝西遷で中書舍人を除せられ夀張縣子(邑300戸)に封ぜられ左將軍・濟州大中正を加え著作佐郎兼修起居注、給事黄門侍郎兼吏部郎中に遷った。六年、河北郡守に出て在郡3年、声績著しく循吏の美があり、大統間の宰人はこれを推尚する者が多かった。
  • 丞相府從事中郎として入り武功郡事を行い、章武公導が泰州に出鎮した際は長史となり撫軍將軍・大都督・通直散騎常侍を加えられた。魏廢帝元年、車騎大將軍・儀同三司・散騎常侍に進み、二年、宇文氏を賜姓、南秦州事を行った。魏恭帝二年、度支尚書に徴拝され、再び隴右府長史を除せられたが在任中に55歳で卒した。諡は質。軌の性は清素で臨終の日、家に余財なく素書数百巻のみが残った。子の肅は世宗初め宣納上士から中外府記室參軍・中山公訓侍讀に転じ、早くより才名あったが性は軽猾で時人は魏の呉諷になぞらえ、ついに罪により考竟(獄死)した。