周書卷三十七 列傳第二十九 趙肅

出自と魏末の官歴

  • 趙肅、字は慶雍、河南洛陽の人。世々河西に居り沮渠氏滅亡後、曾祖武始は魏に帰り金城侯を賜爵、祖興は中書博士、父申侯は秀才に挙げられ後軍府主簿。肅は早くより操行あり時に知られた。魏正光五年、酈道元(酈元)が河南尹となり肅を主簿に辟し、孝昌中、殿中侍御史から出仕し威烈將軍・奉朝請・員外散騎侍郎を加えられ、まもなく直後、直寢に転じた。
  • 永安初め、廷尉を授けられ天平二年、監に転じたが母の喪で去職、廷尉正として起用され疾により免ぜられた。のち征虜將軍・中散大夫を授けられ左將軍・大中大夫に遷った。東魏天平初め、新安郡守を除せられ任満で洛陽に還った。

西魏での功績

  • 大統三年、獨孤信の東討に肅は宗人を率いて郷導となり司州治中を授けられ別駕に転じ糧儲監督を務め軍用を欠かさなかった。太祖はこれを聞き「趙肅は洛陽の主人と称すべき」と語った。七年、鎮南將軍・金紫光祿大夫・都督を加えられ別駕のまま所部の義徒を領して大塢に拠守し行臺左丞・東道慰勞を兼ねた。九年、華山郡事を行い、十三年、廷尉少卿を除せられた。
  • 翌年元日の朝礼は封爵のある者しか列せなかったが、肅はまだ茅土(封地)がなく、左僕射長孫儉が太祖に申請したところ、太祖は肅を召し「歳初の礼に卿を預らせぬはずがない、なぜ早く言わなかったか」と言い自ら封名を選ばせた。肅は「河清こそ太平の応、望むところ」と答え清河縣子(邑300戸)に封ぜられた。十六年、廷尉卿を除せられ征東將軍を加えられた。肅は久しく理官にあり執心平允で処断は皆その情を得、廉慎自居で産業を営まず時人に称された。
  • 十七年、車騎大將軍・儀同三司・散騎常侍に進み乙弗氏を賜姓。かねて太祖の命で法律の撰定にあたっていたが、積思年を重ね心疾を発し去職、家で卒した。子の正禮は齊王憲府屬・大都督・新安郡守。

徐招(附伝)

  • 当時、髙平の徐招という者があり、少壮より法律を好み発言措筆は常に秋毫を弁析しようとし、内外の職に当官の誉れがあった。魏孝武帝の入関に従い給事黄門侍郎・尚書右丞となり、朝廷播遷で典章に欠けが多く臺閣の軌儀の多くは招の参定によったため論者に称された。まもなく侍中・度支尚書に遷り、大統初めに卒した。