周書卷三十七 列傳第二十九 寇儁

寇儁(字は祖儁、上谷昌平の人、?–580年頃)。魏末より仕え、正義を守った逸話で知られ涼州刺史として治績を挙げた。西魏に帰順して祕書監として散逸した典籍の整備にあたり、車騎大將軍・驃騎大將軍等を歴任した。保定三年、80歳で卒し諡は元。

年表(10件)
  • 正光三年軽騎將軍・揚烈將軍などを歴任する
  • 永安初め楊椿との田をめぐる争いで史底の理を認め守正の評を得る
  • 永安二年左將軍・涼州刺史に出て風俗を教化する
  • 大統二年東魏が儁を洛州刺史に任じたのを機に西魏への帰附を謀る
  • 大統五年家族・親属400余口を率いて入関し祕書監を拝す
  • 大統十七年車騎大將軍・儀同三司・散騎常侍を加えられる
  • 魏恭帝
  • 三年若口引氏を賜姓される
  • 孝閔帝踐祚子爵に進み邑500戸を増される
  • 武成元年驃騎大將軍・開府儀同三司に進み邑を通算2000戸とする
  • 保定三年80歳で卒し冀州刺史等を贈られ諡は元

出自と孝行

  • 寇儁、字は祖儁、上谷昌平の人。祖父讚は魏の南雍州刺史、父臻は安遠將軍・郢州刺史。儁は性寛雅、幼くして識量あり学を好み記憶に優れた。兄祖訓・祖禮と共に志行があり、閨門は睦まじく白首まで同居した。
  • 父の死後も長らく、生前使っていた堂宇に帷帳・几杖を備え、時節ごとに拝礼し涙を流して供物を陳べること宗廟の如くであった。吉凶の事は必ず先に啓告し、遠行の往返も同様であった。性は廉恕で財利を心にせず、家人が物を売って余分に絹5匹を得たと知ると「悪木の陰に暫くも息わず、盗泉の水を誤って飲まぬ、財を得て行いを失うのは私のせぬこと」として主を訪ね返した。

魏末の官歴

  • 魏孝文帝の挽郎に選ばれ奉朝請を除せられた。大乗賊(法慶の乱)が燕齊で擾乱した際、護軍事に參じて東討し功により員外散騎侍郎を授けられ、尚書左民郎中に遷ったが母の喪により拝命しなかった。正光三年、軽騎將軍を拝し揚烈將軍・司空府功曹參軍、主簿に転じた。
  • 靈太后臨朝の際、俸禄の1割を削って永寧佛寺を造営し儁にこれを典させたが、費用巨万にもかかわらず主吏はこれを欺隠できず、寺が壮麗に完成すると靈太后はこれを嘉し左軍將軍を除した。孝昌中、国用不足を議し鹽池都將を置いた際、前後の在職者に侵隠が多かったため儁を任じ龍驤將軍・主簿を加えた。

正義を守った逸話と涼州刺史

  • 永安初め、華州民史底が司徒楊椿と田を争い、長史以下は椿の権勢を憚り皆椿の理と言い田を椿に給しようとしたが、儁は「史底は窮民、楊公は横暴にその地を奪った、不足を損ねて有余に給するのは道理に合わぬ」として雷同を拒み地を史底に還した。孝莊帝はこれを知り儁の守正不撓を嘉し司馬を拝し帛100匹を賜い、椿に附いた者は皆譴責された。
  • 二年、左將軍・涼州刺史に出た。民俗は荒獷で盗賊が多かったが、儁は郡県に庠序を立て耕桑を勧め礼讓を敦くさせ、数年で風俗は一変した。梁の将曹琰之が魏興を鎮し辺境を屢々擾したため、儁は長史杜休道に攻めさせその城を克し琰之を擒えた(琰之は梁大將軍曹景宗の末弟)。以後、梁人は魏室の多故と州の僻遠に乗じ大兵を魏興に頓めたが、儁は将士を撫励し人心を得たため梁人も敢えて逼らなかった。在州は清苦で産業を治めず、任期満了時には子らも徒歩で帰り、吏人が留連して見送った。

西魏への帰順と晩年

  • 大統二年、東魏は儁を洛州刺史に任じたが、儁はこれを機に朝廷への帰附を謀り、五年、家族・親属400余口を率いて入関し祕書監を拝した。当時、軍國草創で典籍が散逸していたため、儁は令史を選置し経籍四部の羣書を抄集し次第に整備した。鎮東將軍を加えられ西安縣男(邑200戸)に封ぜられ、十七年、車騎大將軍・儀同三司・散騎常侍を加えられたが老齢を理由に骸骨を乞い、太祖はこれを許さず、儁は疾篤を称して以後朝覲しなかった。
  • 魏恭帝三年、若口引氏を賜姓、孝閔帝踐祚で子爵に進み邑500戸を増した。武成元年、驃騎大將軍・開府儀同三司に進み邑を通算2000戸とした。儁は年老いても志識は衰えず子孫の教授には必ず礼典を先とした。世宗は儒を尚び道を重んじ儁を特に欽賞し、入朝させて同席に坐らせ洛陽の故事を顧問した。儁は身長八尺、鬚鬢は白く容止端詳、音韻清朗で、帝はその話に前のめりになった。儁が辞去する際、帝は自らその手を執り「公の年徳は共に尊く朕の欽尚するところ、また相見えることを望む」と述べ御輿で送らせ、左右に「これほどのことは積善の者のみが致し得る、今に重んじられるのみか万古に伝わるだろう」と語り、時人はこれを栄とした。
  • 保定三年、80歳で卒した。高祖はこれを歎惜し、本官に冀定瀛三州諸軍事・冀州刺史を贈り諡は元。儁は仁義に篤く、孤児となった期功の親族には衣食の豊約を共にした。少壮より司徒崔光に知られ、光は子の勵に儁と友を結ばせた。小宗伯盧辯も儁の業行を崇め師友の礼で待し、暇あれば訪ねて日を尽くして語り「西安君(儁)に会わなければ煩憂が晴れない」と人に語ったという。子の奉は儀同三司・大將軍・順陽郡守・洵州刺史・昌國縣公に至り、奉の弟顒は少壮より学を好み最も知られ、居喪では哀毀を極め、掌朝・布憲典祀下大夫・小納言・濩澤郡公を歴任した。