周書卷三十六 列傳第二十八 裴果
裴果、字は戎昭、河東聞喜の人。魏末の動乱で常に先登陥陣し「黄驄年少」と号された勇将。西魏の太祖に厚遇され、邙山の戦いで東魏都督を生擒するなど武功を重ね、数州の刺史を歴任して称職と号された。天和二年、任地で卒した。諡は質。
出自と魏末の武功
- 裴果、字は戎昭、河東聞喜の人。祖父思賢は魏の青州刺史、父遵は齊州刺史。果は少壮より慷慨で志略があった。魏太昌初め前將軍・乾河軍主から出仕し陽平郡丞を除せられた。太祖がかつて并州で果と出会いただ者でないと見抜き、果も密かに太祖に心を寄せた。
- 永安末、盗賊蜂起の際、果は従軍征討し黄驄馬に乗り青袍を着て常に先登陥陣したため「黄驄年少」と号された。永熙中、河北郡守を授けられ、齊神武が沙苑で敗れると果は宗黨を率いて朝廷に帰した。太祖はこれを嘉し田宅・奴婢・牛馬・衣服・什物等を賜った。河橋の戦い・玉壁解囲に従い共に鋭鋒として奮撃、大統九年には邙山の戦いで太祖の前で自ら陣に陥り東魏都督賀婁烏蘭を生擒、勇は当時に冠たり人々は感嘆した。
太祖・廢帝期の功績
- 太祖はますます果を親待し帳内都督に補し平東將軍に遷った。のち開府楊忠の隨郡・安陸平定に従い功により大都督を加え、正平郡守を除せられた(正平は果の本郡)。威猛を以て政を為し百姓は畏れ盗賊も屏息した。使持節・車騎大將軍・儀同三司・散騎常侍・司農卿に遷り、大將軍尉遲迥の蜀伐に前軍として従い劍閣を開き李慶保を破り楊乾運を降して功を挙げた。
- 魏廢帝三年、龍州刺史を授けられ冠軍縣侯(邑500戸)に封ぜられた。まもなく州民張道・李拓が百姓を率い州城を包囲した際、糧仗欠乏し兵士も少なかったが果は方略を設けてこれを拒ぎ、賊は退走したため追撃してこれを破り、旬月で州境は清晏となった。
晩年
- 陵州刺史に転じ、孝閔帝踐阼で隆州刺史を除せられ使持節・驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられ公爵に進み(邑1000戸増)、武成末には眉州刺史に転じた。保定五年、復州刺史を授けられた。果の性は嚴猛で決断に長け、常に豪右を抑挫し理の屈滞を申べたため、数州を歴任して称職と号された。天和二年、任地で卒し、本官に絳晉建三州刺史を贈られ諡は質。
- 子の孝仁が嗣いだ。幼くして聡敏、經史を渉猟し当時誉れがあり、舍人上士から出仕し大都督・儀同三司に昇り、長寧鎮將に出て齊人を扞禦し辺境防衛の略があった。建德末、建州刺史に遷り譙州刺史に転じ、大象末には亳州刺史に遷った。
劉志(附伝)――出自と魏末の帰順
- 鄭偉らが梁州を挙げて帰款した頃、劉志もまた廣州を挙げて来附した。志、弘農華陰の人、本名は思漢。太尉劉寛の十世孫。高祖隆は宋武帝の姚泓平定に際し宗室の首望として馮翊郡守に拝された。のち赫連氏の侵入により河洛に避難し汝潁に家をなした。祖善は魏大安中に秀才に挙げられ中書博士を拝し、のち弘農郡守・北雍州刺史に至った。父瓌は汝南郡守(贈徐州刺史)。
- 志は少壮より学を好み群書に広く渉り、性は方重で武略も兼ねた。魏正光中、明経により國子助教に徴拝され行臺郎中を除せられた。永安初、宣威將軍・給事中を加えられ、二年、東中郎府司馬・征虜將軍に転じた。永熙二年、安北將軍・銀青光祿大夫・廣州別駕を除せられた。
劉志――北周への帰順と晩年
- 三年、齊神武が挙兵し洛陽に入り魏孝武帝が西遷した際、志は城に拠って従わず、東魏が密かに間使を遣わしたが長安に表を奉じた。孝武帝はこれを嘉し(欠字二字)長史・襄城郡守を授けたが、のち齊神武が兵を遣わして攻囲し志は力屈して城陥落、潜遯して免れた。
- 大統三年、太祖が領軍將軍獨孤信を遣わして洛陽を復すと、志は義徒を糾合し廣州を挙げて帰国、大丞相府墨曹參軍を拝し華陰縣男(邑200戸)に封ぜられ、大都督・撫軍將軍を加えられ中外府屬に転じ國子祭酒に遷った。世宗が宜州に出牧すると太祖は志を幕府司録とし、世宗は儒学を愛し志を特に敬重して事の大小を委ね、志も忠恕謹慎で匡贊の体を得た。太祖はこれを嘉し「卿の為すところは常に吾が意に適う」として「志」の名を賜った。宜州で田宅を賜り移居させ、世宗が岐州に遷った際も本官のまま従わせた。
- 世宗即位後、右金紫光祿大夫・車騎大將軍・儀同三司を除せられ武郷縣公に進み(邑通算1000戸)宇文氏を賜姓。高祖が魯公であった頃、その府司馬となり、高祖嗣位で驃騎大將軍・開府儀同三司に進み刑部中大夫を拝した。志の執法は平允で時誉を得た。蓮芍界内で群盗が行旅を攻劫し郡県も制し得なかった際、志を延壽郡守としてこれを督させると、志は恩信を示し群盗は相率いて罪を請い、志が上表してこれを赦免すると郡界は粛清され寇盗は絶えた。使持節・成州諸軍事・成州刺史に遷り、寛恕の政で民吏に愛された。天和五年、卒し大將軍・揚州刺史を贈られ諡は文。
- 子の子明が嗣ぎ、弘雅で父の風があり、右侍上士・大都督・絳州別駕を歴任、隋文帝踐極で行臺郎中・順陽郡守を除せられた。子明の弟子陵は司右中士・帥都督・涼州別駕、隋開皇初め姑臧郡守を拝し儀同三司を加えられ衞州・蔚州長史、幽州總管府長史を歴任した。
史論
- 史臣は評す。昔、陽貨が外に叛き庶其が邑を窃んだことを春秋は譏ったが、韓信が項羽に背き陳平が漢に帰したことを史遷(司馬遷)は美とした。天下が既に安んじ君道が既に著れている時に利に狥い徳を忘れる者は罪であるが、乱世で臣礼が未だ整わぬ時に禍を転じて福となす者は許されるということである。
- 鄭偉・崔彦穆らは山東にあって不羈の才を持ちながら燕雀のように低迷したが、ついには翻然と豹変して自ら龜組(高位の印綬)を得た。彼らは時機を知る士というべきであろう。王士良は齊に仕えて上卿の班に列し牧伯として出たが、危難に臨んで苟も免れようとし、忠と義を失った点では背叛の徒に近いというべきか。
- 令狐整は器幹確乎として名望は河右に重く、州里にあっては勲が方隅に著れ、朝廷に昇っては功績が中外に宣べられた。それでいて権寵を畏避し終吉を全うできたのは、そうでなければどうして令名を立て高位を取り得たであろうか。