周書卷三十六 列傳第二十八 司馬裔
司馬裔、字は遵胤、河内温の人。晉宣帝司馬懿の弟司馬馗の後裔。魏末に温城で挙義して西魏に帰順し、河内の経営、蜀方面での戦功、信州の蛮族討伐で功を挙げた。清廉で家に余財なく卒し、詔により祠堂が建てられた。諡は定。
出自と魏末の挙義
- 司馬裔、字は遵胤、河内温の人。晉宣帝(司馬懿)の弟太常司馬馗の後裔。曾祖楚之は宋武帝が晉室の戚属を誅した際に難を避け魏に帰り、使持節・侍中・鎮西大將軍・開府儀同三司・朔州刺史・琅邪王に至った。裔は少壮より父を失い志操があり、州郡の辟召に応じなかった。司徒府參軍事から出仕し軍功により中堅將軍・員外散騎常侍を授けられた。
- 魏孝武帝西遷の際、裔は鄴にあったが密かに郷里に帰り功を立てる志を持った。大統三年、大軍が弘農を復した際、温城で挙義し使者を遣り帰款を伝え、東魏の將髙永洛・王陵らと昼夜交戦、寡兵で義徒の死傷は過半に及んだ。大軍の東征に河橋の戦いに従い、別に懷縣を攻めその將吳輔叔を獲た。以後、東魏との戦いで屢々戦果を挙げた。
河内経営と入関後の功績
- 大統六年、河内郡守を授けられ、まもなく持節・平東將軍・北徐州刺史を加えられた。八年、義衆を率いて入朝、太祖はこれを嘉し特に賞労した。まもなく河内の4千余家が裔の旧縁により帰附、前將軍・太中大夫・領河内郡守として流民を安集した。十三年、東魏の平齊・栁泉・蓼塢三城を攻拔しその鎮將李熙之を獲、都督を加えられた。
- 十五年、太祖が山東の立義諸将で衆を率い入関できる者に重賞を加えると布告した際、裔は千室の戸を率いて先に至り、太祖は裔を封じようとしたが、裔は「立義の士が郷里を辞し親戚を捐てて遠く皇化に帰るのは誠心の発露、私が率いたわけではない、今これを私に封ずるのは義士を売って栄を求めるようなもの」と固辞した。太祖はこれを善しとし帥都督を授け、妻元氏を襄城郡公主とした。
蜀・巴蜀方面での戦功
- 十六年、大軍東伐に前鋒を請い建州に入り東魏將劉雅興を破りその五城を抜いた。魏廢帝元年、裔は本兵で漢中を鎮するよう召され白馬城主兼華陽郡守を除せられ撫軍將軍・大都督・通直散騎常侍を加えられた。二年、鎮宋熙郡に転じ、まもなく尉遲迥の蜀伐に従い叱羅協と共に趙雄傑を槐林で破り鄧朏を梓潼で平定、功により龍門縣子を賜り行蒲州刺史、まもなく行新城郡事となった。魏恭帝元年、使持節・車騎大將軍・儀同三司・散騎常侍・本郡中正を授けられた。
信州蛮族討伐と晩年
- 孝閔帝踐阼で巴州刺史を除せられ、使持節・驃騎大將軍・開府儀同三司に進み琅邪縣伯(邑500戸)に封じられた。保定二年、御伯中大夫として入り邑を通算1500戸とし、四年、御正中大夫に転じ公爵に進んだ。大軍東討の際、義兵を率いて少師楊□(実体参照〈&KR0710;〉、字形不明)と軹關を守り、懷州刺史・東道慰勞大使を授けられた。五年、始州刺史に転じた。
- 天和初め、信州の蛮酋冉令賢らが反乱し2千余里に連結すると、裔は上庸公陸勝に従いこれを討った。裔は開州道より入り、まず使者を遣り禍福を説いたところ蛮酋冉三公ら30余城が来降した。雙城に進むと蛮酋向寶勝らが険に拠って自固し、向天王の徒がその外援となった。裔は昼夜攻囲し腹背に敵を受けながら春から秋まで50余戦、寶勝は糧仗尽きて降り、なお落ちなかった籠東の一城もまもなく抜いた。さらに賊帥冉西梨・向天王らを獲た。出師2年で群蛮は率服し、信州刺史を拝した。五年、潼州刺史に遷り、六年、大將軍に徴拝され西寧州刺史を除せられたが赴任前に京師で卒した。
- 裔の性は清約で生業を事とせず、得た俸禄はすべて親戚に散じたため死の日には家に余財なく宅宇は卑陋で喪庭にも何も無かった。詔により祠堂が建てられた。大將軍・懷邵汾晉四州刺史を贈られ諡は定。
司馬偘(裔の子、附伝)
- 子の偘が嗣いだ。字は道遷。少壮より敢勇で弱冠前より従軍した。保定四年、少師楊□の東征に従い、齊人との交戦で楊□が敵に擒えられた際、偘は力戦してこれを免れさせた。天和二年、右侍上士を授けられ都督を加え大都督に進み、大軍の晉州攻めに従い功により使持節・車騎將軍・儀同三司を授けられた。さらに并・鄴の平定に従い樂安郡守を除せられ、のち晉州及び平齊の勲を改めて論じられ驃騎大將軍・開府儀同三司を加えられ兗州刺史に遷ったが赴任前に卒した。本官に豫州刺史を贈られ諡は惠。子の運が嗣いだ。