周書卷三十六 列傳第二十八 令狐整
令狐整、字は延保、燉煌の人。西土の名門の出で、魏孝武帝西遷後の混乱期に瓜州で挙義し、張保の乱を平定して忠節を示した。豐州刺史として治所を移し民心を得るなど治績を挙げ、晉公護に近づかず節を守ったため護の誅殺後も保全された。建德二年、61歳で卒した。諡は襄。
出自と魏末の忠節
- 令狐整、字は延保、燉煌の人。本名は延世。西土の名門で、曾祖嗣・祖詔安は共に郡守に至り良二千石と称された。父虬は名徳で早くから聞こえ、瓜州司馬・燉煌郡守・郢州刺史を歴任し長城縣子に封ぜられ、大統末に家で卒した。太祖はこれを悼み使者を遣わして喪事を監護させ、郷人に墳壟を営ませ龍驤將軍・瓜州刺史を追贈した。
- 整は幼くして聡敏、沈深な識量があり學藝・騎射ともに河右で推重された。刺史魏東陽王元榮に主簿として辟され盪寇將軍を加えられ、その進退は詳雅、対揚は辨暢で謁見の際は州府の耳目を集めた。榮はその德望を評し「令狐延保の西州における令望は方城の重器、州郡の職に縶がれるべきではない、必ず千里を走る才、庶務を委ねよう」と語った。
瓜州での挙義
- 魏孝武帝西遷後、河右が擾乱、榮は整に州境の防扞を仗んで安寧を得た。鄧彦が瓜州を窃み代を受けなかった際、整は開府張穆らと密かに使者申徽に応じ彦を捕らえ京師に送った。太祖はその忠節を嘉し表して都督とした。
- のち城民張保が刺史成慶を殺し涼州刺史宇文仲和と結んで河西に拠ろうと謀り、晉昌人呂興らも郡守郭肆を害し郡を保に応じさせた。保らは当初、整が義を守り従わないことを慮り、成慶殺害後は整をも害そうとしたが、整の人望を恐れ配下の離反を懼れて手を出せず、外は礼敬しつつ内では忌み、整も偽って親附するふりをして密かに図った。
- 整は密かに人を遣り保に「君と仲和は唇歯の関係、東軍が涼州に迫れば彼の勢は孤危、負ければ禍はこの地に及ぶ。精鋭を分け救援すべき、二州が力を合わせれば東軍も図れる」と説き、保はこれに従ったが人選に迷った。整はさらに「令狐延保は文武を兼ね統御の才あり、将とすれば必ず成る」と説かせ、保は整の父兄が城中にあることを疑わず整を派遣させた。
張保討伐と論功
- 整は玉門郡に至り豪傑を召集して保の罪逆を説き、馳せ戻って襲撃、まず晉昌を平定し呂興を斬り、進軍して保を撃った。州人は整の威名に服し保を棄てて帰附、保は吐谷渾に奔った。
- 衆議は整を刺史に推そうとしたが、整は「もとより張保の逆害により州の人々は共に不義に陥った、今は同心して兇を除くのが務め、自ら推薦を受ければまた禍を招く」として辞し、波斯使主張道義を推して州事を行わせ、詳細を上聞した。詔により申徽が刺史となり、整は召されて闕に赴き夀昌郡守を授けられ驤武縣男(邑200戸)に封ぜられた。太祖は整に「卿は少壮より英略を懐き早くに殊勲を建てた、今の官位はまだ酬いるに足りぬ、卿と共に天下を平らげ富貴を共にしよう」と語り、瓜州義首に立てられ持節・撫軍將軍・通直散騎常侍・大都督を除せられた。
大統以降の功績と改姓
- 整は国難未だ平らぎぬことを憂い一族を挙げて効力しようと郷親2千余人を率いて入朝、征討に従軍した。撫馭に長じ豊約を共にしたため衆は羈旅の身を忘れ力を尽くし、使持節・車騎將軍・儀同三司・散騎常侍に昇った。
- 太祖は整に「卿の遠祖は忠を立てて去り、卿は今忠を立てて来た、積善余慶、世々その美を済す者と言うべき」と語った(整の遠祖、漢の建威將軍令狐邁は王莽に屈せず、その子稱は河右に避地したことを指す)。まもなく驃騎大將軍・開府儀同三司・侍中を加えられ、太祖はさらに「卿の勲功は婁項・義等ら骨肉に同じく、立身は敦雅で人の範となし得る」として宇文氏を賜姓し「整」の名を賜った。宗人200余戸も皆属籍に列せられた。
豐州刺史としての治績と晩年
- 孝閔帝踐祚で司憲中大夫を拝し法の運用は平允で当時称された。彭陽縣公(邑1000戸増)に進んだ。梁の興州刺史席固が州を挙げて帰附した際、太祖は固を豐州刺史としたが、固は長らく梁法に習い治典を虧くことが多く、朝議は密かに代えようとしたがその人選に難儀し、整に権鎮豐州を委ねて固に代わる略を任せた。整は威恩を広く布き身を傾けて撫接、数月で州府は化洽した。
- そこで整を豐州刺史とし固は湖州刺史に転じた。豐州の旧治は人が住まず賦役の勞逸が不均衡だったため、整は治所を武當に移すよう請い詔許を得た。奨励撫導により遷る者は帰るが如く、旬月で城府は整った。固の遷任に際しその部曲の多くが整の左右に留まることを願ったが、整は朝制を諭して許さなかったため、部曲は涙を流して去った。整の任期が満ちて交代者が至ると民吏は名残を惜しみ老幼が送り遠近から集まり、数日留まってようやく州境を出られたという。人心を得ることこの通りであった。
- 御正中大夫を拝し中華郡守に出、同州司會に転じ始州刺史に遷った。整は識見が優れ情偽を明察し政術に明るく、恭謹廉慎で常に盈満を懼れたため内外の任地で称された。天和六年、大將軍に進み邑を通算2100戸とした。晉公護が執政初め整を腹心にしようとしたが整は辞して受けず護の意に逆らったためこれを疎んじられた。護が誅せられた際、附会した者は皆伏法したが整だけは保全され、時人はその先見を称えた。建德二年、61歳で卒し、本官に鄜宜豳鹽四州諸軍事・鄜州刺史を追贈され諡は襄。子の熙が嗣いだ。
令狐熙・令狐休(整の子・弟、附伝)
- 子の熙、字は長熙。性は方雅で度量あり、私室にあっても容止は儼然、一時の賢俊とばかり交わり、騎射に善く音律に通じ群書を渉猟し特に三禮に明るかった。歴任した職では皆能名があり、大象中には吏部中大夫・儀同大將軍に至った。
- 整の弟休は幼くして聡敏で文武の才があり、太學生から出仕、整と共に張保討伐の挙兵に加わり都督を授けられ、大都督・樂安郡守、中外府樂曹參軍に昇った。当時、功臣の多くが本州刺史となる中、晉公護は整に「公の勲望なら本州を得るべきだが朝廷が公の委任を頼み遠くに出せぬ、しかし公門には衣錦の栄が要る」として休を燉煌郡守とし、十余年在郡して政績を挙げ儀同三司に進み合州刺史に遷り、任地で卒した。