東魏からの帰順
- 楊纂、廣寧の人。父安仁は魏の北道都督・朔州鎮將。纂は少壮より軍旅に習い慷慨で志略あり、騎射に巧みで勇力人に兼ねた。20歳で齊神武(高歓)に従い信都で起兵し軍功を挙げ安西將軍・武州刺史に昇ったが、功高く賞薄いことを怨憤し「大丈夫の富貴は必ずしも故郷にあらず、妻子に懐を撓められては雄志を沮喪させる」と嘆いていた。
- 大統初め、間道を通り太祖に帰款した。太祖は纂の手を執り「人の貴ぶところは忠義、懼れるところは危亡。危亡を憚らず忠義を踏む者を今卿に見た」と称え、征南將軍・大都督に任じ永興縣侯(邑800戸)に封じた。
戦功と晩年
- 通直散騎常侍を加えられ、太祖の洛陽解囲、河橋・邙山の戦いに従い常に先登し軍中はその敢勇を推した。使持節・車騎大將軍・儀同三司・散騎常侍、驃騎大將軍・開府儀同三司・侍中を加えられ公爵に進み(邑通算1000戸)、莫胡盧氏を賜姓、まもなく岐州刺史を授けられた。
- 孝閔帝踐阼で宋熙郡公に進み、保定元年、大將軍に進み隴東郡公に改封、隴州刺史となった。三年、隋公楊忠の東伐に従い并州まで至って還った。天和六年、柱國大將軍に進み華州刺史に転じた。纂の性は質樸で文字を識らず、前後の任職では誠信を推すのみであったが、吏はその忠恕を懐いた。任地で67歳で卒し、子の睿が嗣ぎ上柱國・漁陽郡公に至った。