周書卷三十六 列傳第二十八 鄭偉

鄭偉、字は子直、滎陽開封の人。父先護も魏の武将で梁に奔り仲遠に殺された。偉は西魏の獨孤信による洛陽復に呼応して陳留で挙兵し東魏の地を攻略、太祖のもとで戦功を重ねて襄城郡公に進んだ。性は麁獷で法度に従わず、江陵で副防主を専断で殺して除名されるなど毀誉相半ばした武将。天和六年、任地で57歳で卒した。諡は肅。

年表(4件)
  • 大統三年獨孤信の洛陽復に呼応し陳留で挙兵、梁州を攻拔して東魏刺史鹿永吉らを擒える
  • 魏恭帝
  • 二年大將軍に進み江陵防主・都督十五州諸軍事となる
  • 保定元年江陵で副防主把賓王を殺し除名されるも詔により官爵を復し宜州刺史となる
  • 天和六年華州刺史に転じ、任地で57歳で卒す

出自と父先護

  • 鄭偉、字は子直、滎陽開封の人。小名は闍提。魏の將作大匠鄭渾之の十一世孫。祖父思明は少壮より勇悍、魏で直閤將軍に至り贈官は濟州刺史。父先護も武勇で聞こえ員外散騎侍郎から出仕、魏孝莊帝が藩にあった頃より早く結託した。
  • 孝莊帝即位後、先護は通直散騎常侍・平南將軍・廣州刺史を歴任し平昌縣侯に封ぜられた。元顥入洛の際の禦扞の功で都督二豫郢雍四州諸軍・征東將軍・豫州刺史兼尚書右僕射に累進し郡公に進んだ。のち車騎將軍・左衞將軍に入った。
  • 爾朱榮死後、爾朱仲遠が兵を擁して洛陽に入ろうとした際、先護は假驃騎將軍・大都督としてこれを討ったが、賀拔勝が陣中で仲遠に降ったため衆は潰え、先護は梁に奔り、のち梁より帰って仲遠に殺害された。魏孝武帝初め、使持節・都督青齊兗豫四州刺史を贈られた。

帰順と挙兵

  • 偉は少壮より倜儻で大志を抱き、常に功名を以て自ら任じ、騎射に善く膽力人に過ぎた。爾朱氏滅亡後、梁より魏に帰り通直散騎侍郎として出仕したが、孝武帝西遷に際しては郷里に帰り仕官を求めなかった。
  • 大統三年、河内公獨孤信が洛陽を復した際、偉は宗族に「嗣主が中興の業を継ぎ崤函を拠り、河内公が自ら衆軍を董して瀍洛を克復した今こそ、代々朝恩を受け忠義を伝える我らが臣子の節を効し富貴を成すべき時」と説き、宗人榮業と共に州里を糾合、陳留で挙兵、宿泊の間に衆は1万余に達した。
  • 梁州を攻拔して東魏刺史鹿永吉と鎮城の令狐德を擒え、陳留郡守趙季和も獲て衆を率いて帰附、これにより梁陳の間で相次いで降款が続いた。

太祖のもとでの戦功と晩年

  • 偉は入朝し太祖と語り、太祖はこれを嘆美して龍驤將軍・北徐州刺史・武陽縣伯(邑600戸)とした。河橋の戦い・玉壁解囲に従い常に先鋒として陥陣、侯景帰款の際は偉が率いて応接し、景の叛後も全軍で還った。前後の功により中軍將軍・滎陽郡守、散騎常侍・大都督を加えられ、襄城郡公(邑2000戸)に進み車騎大將軍・開府儀同三司を加えられた。魏恭帝二年、大將軍に進み江陵防主・都督十五州諸軍事となった。
  • 偉の性は麁獷で法度に従わず、些細な怨みですぐ殺戮を行った。朝廷は立義の功によりこれを優容してきたが、江陵にあって副防主把賓王を専断で殺し除名された。保定元年、詔により官爵を復し宜州刺史、天和六年、華州刺史に転じた。前後の任地では威猛を以て治めたため吏民は禁を犯さず盗賊も止んだが、仁政はなかった。同年、任地で57歳で卒し、少傅・都督司豫洛相冀五州諸軍事・司州刺史を追贈され諡は肅。
  • 偉は吃音であった。若い頃、野で鹿を追い見失って牧童に尋ねたところ牧童の返答も吃音だったため、自分を真似ていると怒り射殺したという。その残忍暴戻さはこの通りであった。子の大士が嗣いだ。

鄭頂(偉の族人、附伝)

  • 偉の族人頂、字は寧伯。少壮より幹用があり員外散騎侍郎から出仕、行臺左丞・陽城陳留二郡守に昇り、偉と共に挙兵の計を謀った。のち偉に従い入朝し魏昌縣伯を賜り、太府少卿を除せられ、扶風郡守に出、再び太府少卿、衞尉少卿に転じ、内外の職に恪勤の誉れがあった。まもなく官にて卒し、儀同三司・豫州刺史を贈られた。
  • 子の常、字は子元は学に渉り官にあって誉れがあり、撫軍將軍・通直散騎常侍・司皮下大夫を歴任、信東徐南兗三州刺史に遷り、立義と累戦の功により上開府儀同大將軍・饒陽侯を授けられた。卒して本官に郢鄯陝三州諸軍事・郢州刺史を追贈された。子の神符。