出自と生い立ち
- 裴俠、字は嵩和、河東解の人。祖父思齊は秀才に挙げられ議郎を拝した。父欣は經史に広く通じ、魏の昌樂王府司馬・西河郡守(贈晉州刺史)。俠は幼くして聡慧で常童と異なり、13歳で父を喪い哀毀すること成人の如くであった。州辟主簿、秀才に挙げられた。
魏孝武帝への忠義
- 魏正光中、奉朝請として出仕し員外散騎侍郎・義陽郡守に昇った。元顥が洛陽に入った際、その使者を捕らえその赦書を焼いたことを魏孝莊帝が嘉し、輕車將軍・東郡太守兼防城別將を授けた。
- 魏孝武帝と齊神武の間に隙が生じ河南兵を徴して備えた際、俠は部下を率いて洛陽に赴き建威將軍・左中郎將を授けられた。孝武帝の西遷に際し、妻子はなお東郡にあり、滎陽鄭偉が「妻子の許へ帰るべき」と勧めたが、俠は「忠義の道は忽せにできぬ、既に人の禄を食んだ以上、妻子のために易えられぬ」と答え、そのまま関に入った。清河縣伯に封ぜられ丞相府士曹參軍を拝した。
沙苑の戦功と善政
- 大統三年、郷兵を率いて沙苑の戦いに先鋒として陥陣した。俠の本名は協であったが、太祖はその勇決を嘉し「仁者は必ず勇あり」として俠と改名させた。功により侯爵に進み(邑800戸)、行臺郎中を拝した。
- 王思政の玉壁鎮守に長史として従い、齊神武(高歓)に攻められた際、神武が思政に降を勧める書を送ると、俠が起草した返書は壮烈で、太祖は「魯連にも劣らぬ」と称えた。
河北郡守としての清廉
- 河北郡守を除せられ、質素倹約を旨とし民を子のように愛し、食は菽麦鹽菜のみであった。旧制で郡守に供する漁猟夫30人があったが「口腹のために人を使役するのは私のせぬこと」として全て廃した。また供役の丁30人分の庸直も私せず官が馬を買う費用に充て、数年で馬が群をなした。離任の日には何も持ち去らず、民は「肥鮮を食わず庸を取らず、裴公の貞惠は世の規矩」と歌った。
- 太祖に諸牧守と共に謁見した際、俠だけを別立させ「裴俠の清慎奉公は天下第一、俠のような者があれば共に立て」と言ったが、応じる者はなかった。太祖は俠を厚く賜い、朝野は感服して「獨立君」と号した。俠は九世伯祖貞侯裴潛の伝を撰し、宗室で名の知れた者に配って清廉の家風を後世に伝えようとした。従弟の伯鳳・世彦にからかわれても、俠は「清は職に莅む本、儉は身を持する基」と答え、伯鳳らは慚じて退いた。
晩年と評価
- 大行臺郎中を経て郢州刺史・儀同三司、祏州刺史、雍州別駕を歴任。孝閔帝踐阼に伴い司邑下大夫・驃騎大將軍・開府儀同三司となり公爵に進み(邑通算1600戸)、民部中大夫に転じた。長年隠没されていた倉儲の姦吏を摘発し数旬で姦盗をほぼ一掃、工部中大夫に転じた際も大司空掌錢物典李貴の隠匿(500萬)を自首させるなど姦を粛清した。
- 病を得た際、大司空宇文貴・小司空申徽が見舞いに訪れ俠の家が風雪も凌げぬ質素さと知り帝に報告、帝はこれを憐れみ邸宅・良田10頃・奴隷・耕牛・糧粟を賜った。武成元年、任にあって卒し太子少師・蒲州刺史を贈られ諡は貞。河北郡の前功曹張回や吏民は俠の遺徳を感じ頌を作りその清徳を記した。
- 子の祥は忠謹で治劇の才があり、成都令となったが清廉さは俠に及ばず断決は俠に勝った。長安令に転じて権貴に憚られ、司倉下大夫に遷ったが、俠の死に際し毀に過ぎて卒した。祥の弟肅・貞・亮は才藝があり、天和中に秀才に挙げられ給事中士より御正大夫に昇り、胡原縣子に封ぜられた。