周書卷三十四 列傳第二十六 趙善

趙善

  • 趙善、字は僧慶。太傅楚国公・趙貴の従祖兄。祖の国は魏の龍驤将軍・洛州刺史、父の更は安楽太守。若くして好学で経史を渉猟し容儀に美しく沈毅で度量があった。爾朱天光の主簿として重んじられ、邢杲・万俟醜奴の討伐に長史として謀議に参与、天光が関右行台となると行台左丞・都督・征虜将軍。普泰初、関隴平定の功で驃騎将軍・大行台散騎常侍・山北県伯・食邑五百戸、東雍州刺史。天光が斉神武を韓陵で拒んだ際も長史として従い、天光が敗死すると屍を収葬することを乞い斉神武もこれを義として許した。賀抜岳が関中兵を総べると長史として迎えられ、岳が侯莫陳悦に害された後は諸将と太祖を推戴し悦平定に従った。魏孝武帝の西遷で都官尚書、襄城県伯・食邑五百戸、北道行台として李虎らと曹泥を討ち克つ、車騎大将軍・儀同三司・尚書右僕射、公に進爵し食邑千五百戸。
  • 大統三年左僕射兼侍中・監著作・領太子詹事。温恭で器局あり要職にありながら謙退し、職務の功は「某官の力」、罪責は「善の咎」と自らを低く述べたため公輔の器量と称され太祖にも敬重された。九年邙山の戦いで大軍不利の際、敵に捕らえられ東魏で没した。建徳初、斉との通好が回復すると柩が返還され、子の絢が贈諡を上表し大将軍・大都督・岐宜寧豳四州諸軍事・岐州刺史・諡敬を追贈された。子の度、字は幼済、車騎大将軍・儀同三司。度の弟の絢、字は会績、驃騎大将軍・開府儀同三司・浙資二州刺史。