趙文表
- 趙文表、その先は天水西の人、南鄭に移り累世二千石の家柄。父の江は方厳で東巴州刺史・計部中大夫・驃騎大将軍・開府儀同三司・御伯中大夫・昌国県伯、虞絳二州刺史・諡貞を追贈された。趙文表は修謹忠節に篤く弓馬に長じ左氏春秋を好み、太祖の親信から起家し田弘の山南征討に功を立て都督、南巴州・信州平定に従い帥都督、許国公宇文貴の蜀鎮に従い昌城郡事代行。保定元年許国公府司馬・大都督、五年畿伯下大夫・許国公府長史、車騎大将軍・儀同三司として宇文貴の突厥への逆女に従い皇后を迎える儀注を担当。突厥が皇后の出発を渋り馬瘦を口実に道行を遅らせた際、趙文表は突厥使羅莫縁に「道中で東寇の隙や吐谷渾の変事が生じかねない、可汗の愛女を上国に嫁がせる好機に防慮を怠るのは臣の道に反する」と説き、道を倍加させて甘州まで急行させた功で伯陽県伯・食邑六百戸。
- 天和三年梁州総管府長史、恒陵一帯の生獠の反乱を討平し蓬州刺史として仁恕の政で夷獠を懐柔、驃騎大将軍・開府儀同三司、大将軍・公に進爵。大象中吳州総管。開府于顗が吳州刺史であったが、隋文帝執政・尉遅迥挙兵の混乱期に于顗が自らの家柄(皇室の肺腑)ゆえに趙文表に先制されることを恐れ、病と称して面会に赴いた趙文表を手ずから刺し、逆に「趙文表謀反」と朝廷に急報した。隋文帝は諸方未定の情勢から于顗を吳州総管に留任させたが、後に趙文表の無実が判明すると于顗を罰さぬまま趙文表の子・仁海の襲爵を許した。