周書卷三十二 列傳第二十四 唐瑾

唐瑾

  • 唐瑾、字は附璘。父の永は温恭で経史に博通し文をよくした。唐瑾は身長八尺二寸、容貌魁偉、十七歳で周文(太祖)にその名を聞かれ「陵は武略に富み瑾は文雅に富む、共に朝に召したい」と父に書を送り、尚書員外郎・相府記室参軍事として軍書羽檄を多く掌り、沙苑・河橋の戦功で姑臧県子に封ぜられた。尚書右丞・吏部郎中を経て、魏室草創期の朝章国典に参与、戸部尚書・驃騎大将軍・開府儀同三司、宇文氏を賜姓。燕公于謹が勲高く望重い立場から唐瑾の学行を慕い異姓の兄弟の契りを結ぶことを願い出、文帝はこれを歎じ許し萬紐于氏を賜姓した。于謹も子孫に唐瑾を敬わせ、朝望の帰する所となった。
  • 臨淄県伯、吏部尚書として銓衡(人事評価)に人倫の鑑があると評された。父の喪に去職したが起用され視事、周文が六尚書を「六俊」と称した中でも唐瑾が最も重んじられた。于謹の江陵征討に元帥府長史として謀略を多く出し、江陵平定後、士大夫が僕隷に落とされる中、才行のある者を審査し免じさせ多くを救済した。凱旋時、諸将が虜掠で財物を得る中、唐瑾は書物二車のみを持ち帰り、これを梁の珍宝と讒言する者があったが文帝が密かに検分させると典籍のみであったため「孤はこの人を二十年来知っている、義に利を求めぬ人だ」と感嘆した。江陵平定の功で公に進爵、六官制下で禮部中大夫、蔡州刺史・柘州・硤州で徳化の治績を挙げ、荊州総管府長史・吏部中大夫・御正納言中大夫を歴任、十旬足らずで四職を遷り栄誉とされた。司宗中大夫兼内史のまま卒し、小宗伯・諡方を贈られた。方重で風格があり、退朝の休暇にも衣冠を正して妻子に対し、迅雷烈風には夜中でも冠帯し危坐したという。施与を好み俸禄を宗族の貧しい者に分け肥沃な田は施し、子孫には痩せた地のみを遺した。新儀十篇を撰し、賦頌碑誄二十余万言を著した。孫の大智が嗣いだ。次子の唐令則は篇章を好み音律に通じ天和中に斉への使者、大象中に楽部下大夫に至ったが隋で皇太子勇廃立事件に連座し誅された。