太祖に「意」と名付けられた統御の才
- 李和は本名を慶和といい、その先は隴西狄道の人。後に朔方に徙り居した。父の僧養は代々の雄豪で統御を善くし夏州酋長となった。和は若くして敢勇で識度があり、状貌は魁偉で州里に推された。賀抜岳が関中に鎮した際、和を帳内都督に引き、諸賊を破った功により征北将軍・金紫光禄大夫に稍遷し思陽公の爵を賜り、まもなく漢陽郡守を除せられ、治は寛簡を存し百姓はこれを称えた。大統初年に至り、車騎将軍・左光禄大夫都督を加えられ、累遷して使持節車騎大将軍儀同三司・散騎常侍・侍中・驃騎大将軍開府儀同三司・夏州刺史となり、宇文氏の姓を賜った。太祖はかつて諸将に「宇文慶和は智略に明贍で、身を立てるに恭謹であり、たびたび委任を経てそのたびに我が意に称う」と述べ、そのまま「意」の名を賜った。永豊県公・邑1000戸に改封された。
- 保定2年、司憲中大夫を除せられ義城郡公に進爵、まもなくまた徳広郡公に改封され洛州刺史として出た。和は以前夏州にあって頗る遺恵を留めており、この授任に及び商洛の父老はみな徳音を想望しないことはなかった。和が州に至ると仁恕をもって民を訓え、獄訟はこれにより簡静となった。天和3年、大将軍に進位し延綏丹三州武安伏夷安民三防諸軍事・延州刺史を拝した。6年、柱国大将軍に進んだ。建徳元年、延綏銀三州文安伏夷安民周昌梁和五防諸軍事に改授されたが、罪により免ぜられ、まもなく柱国に復した。隋の開皇元年、上柱国に遷った。和は身を立てるに剛簡で老いてなお励み、諸子は厳君に事えるように仕えた。太祖が賜った名は市朝が既に革まってもなお慶和は父の命じたものであり義として違えられないとして、この時ようやく和を名とした。2年薨じた。本官を贈られ司徒公・徐兗邳沂海泗六州刺史を加えられ、諡を粛といった。子の徹が嗣いだ。