血染めの甲で示した武勇
- 耿豪は本名を令貴といい、鉅鹿の人。その先は劉石の乱を避けて遼東に居り、燕に仕え、曾祖の超が衆を率いて魏に帰したことから神武川に家を構えた。豪は若くして麁獷(あらあらしく荒っぽい)で武芸があり、気をもって人を凌ぐことを好んだ。賀抜岳の西征に帳内として引かれ、岳が害されると太祖に帰し、武勇をもって知られた。豪もまた自ら仕えるべき主を得たと思った。侯莫陳悦の討伐及び魏孝武帝の迎えに従い、前後の功を録され平原県子・邑300戸に封じられ、寧朔将軍・奉車都尉を除せられ、征虜将軍に遷り通直散騎常侍を加えられ、侯に爵を進め邑700戸を増やされた。竇泰を擒え、𢎞農を復すのに従い、豪は先鋒として陥陣し前将軍・中散大夫を加えられた。沙苑の戦いで、豪の殺傷は甚だ多く血が甲裳を染めて尽く赤くなり、太祖はこれを見て「令貴の武猛は向かうところ敵無し、その甲裳を見れば験とするに足る、更に級数を論ずる必要はない」と歎じ、爵を公に進め邑を通前1500戸に増やし、鎮北将軍・金紫光禄大夫・南郢州刺史を除せられた。
- 9年、太祖に従い邙山に戦った際、豪は所部に「大丈夫は賊を見れば右手に刀を抜き左手に矟を把り、直ちに刺し直ちに斫るべきだ、慎んで眉をひそめ死を畏れるな」と述べ、大呼して独り敵中に入ると、鋒刃が乱れ下り当時みな豪は死んだと思ったが、俄かに刀を奮って還り、数合戦うと豪の前に立つ者は死傷が相継いだ。また左右に「吾がどうして殺人を楽しもうか、ただ壮士が賊を除くにはそうせざるを得ないのだ、もし賊を殺せず人にも傷つけられないなら、座って人を逐うのと何が異なろうか」と述べた。太祖はこれを嘉して北雍州刺史を拝させた。13年、前後の戦功を論じられ車騎大将軍儀同三司に進授され、邑を通前1800戸に増やされた。15年、和稽氏の姓を賜り侍中・驃騎大将軍開府儀同三司に進位した。豪は性が凶悍で言葉に不遜が多かったが、太祖はその驍勇を惜しみ常に優容した。豪もまた自ら意気は群を冠すると考え終に屈することがなかった。李穆・蔡祐は初め豪と同時に開府となったが、後にみな豪の上位に居るようになると、豪は意平らかならず太祖に「外間の物議は豪が李穆・蔡祐に勝ると言っています」と述べた。太祖が「何をもってそう言うのか」と問うと、豪は「世は李穆・蔡祐を丞相の臂膞(腕)、耿豪・王勇を丞相の咽項(喉)と言います、咽項は上にあるので勝るとするのです」と答えた。豪の麁猛はみなこの類であった。16年に卒した。時に年45。太祖はこれを痛惜し本官を贈り朔州刺史を加えた。子の雄が嗣ぎ、位は大将軍に至った。