太祖に賜名された驍将と晩節の慙恚
- 王勇は代の武川の人。本名は胡仁。若くして雄健で胆決があり、弓馬に便り膂力は人に過ぎた。魏永安年間、万俟醜奴らが関隴を寇乱すると、勇は募に応じ従軍してこれを討ち、功により寧朔将軍・奉車都尉を授けられた。また侯莫陳悦・賀抜岳の征討にたびたび従い、功は常に多くを占め別将を拝した。太祖が丞相となると帳内直盪都督に引かれ、後将軍・太中大夫を加えられ包信県子・邑300戸に封じられた。大統初年、邑400戸を増やされ、侯に爵を進めた。竇泰を擒えるのに従い、𢎞農を復し、沙苑に戦い、その気は衆軍を蓋い当たれば必ず破れたので、太祖はその勇敢を歎じ賞賜は特に厚く、爵を公に進め邑1500戸を得て鎮南将軍を拝し帥都督を授けられた。趙青雀の討伐に従いこれを平定し論功は最とされ、衛大将軍・殷州刺史を除せられ通直散騎常侍を加え太子武衛率を兼ねた。
- 邙山の戦いで、勇は敢死の士300人を率い、みな短兵を執って大呼し直進し、出入り衝撃して殺傷は甚だ多く、敵人は敢えて当たる者がなかった。この戦いでは大軍が不利であったが、ただ勇及び王文達(傑)・耿令貴(豪)の三人が力戦してみな殊功があった。太祖はそこで帛1000匹を賞し自ら分けさせた。軍が還るとみな上州刺史を拝し、雍州・岐州・北雍州を勇らに擬授しようとしたが州には優劣があったので、籌を探らせて取らせると、勇はついに雍州を得、文達は岐州を得、令貴は北雍州を得た。そのまま勇に「勇」の名を、令貴に「豪」の名を、文達に「傑」の名を賜りその功を彰した。13年、大都督を授けられ、使持節車騎大将軍儀同三司に遷った。15年、侍中・驃騎大将軍開府儀同三司に進んだ。魏恭帝元年、柱国趙貴に従い茹茹を征しこれを破り、勇は追撃して雑畜数千頭を獲て、新陽郡公に進爵、邑を通前2000戸に増やされ、庫汗氏の姓を賜った。六官が建てられると稍伯中大夫を拝した。また茹茹討伐の功を論じ別に永固県伯・邑500戸に封じられたが、当時別封を得た者は例として次子への回授が許されていたところ、勇は独り兄の子の元興を封じることを願い出て、時人はこれを義とした。まもなく大将軍に進位した。世宗の初め、岷山の羌豪鞏廉俱和が叛くと、勇は師を率いてこれを討平した。
- 勇は性が雄猛で当時の驍将であったが、功を誇り善を伐って人の悪を挙げることを好んだので、時論もまたこれを鄙んだ。柱国侯莫陳崇は勲高く望重く、諸将と共に晋公護に謁見した際、勇がしばしば人の短所を論じると聞き、衆の中でこれを折辱した。勇はついに慙恚し、疽が背に発して卒した。子の昌が嗣ぎ、官は大将軍に至った。