周書卷二十八 列𫝊第二十 賀若敦

湘州撤退戦の知略

  • 賀若敦は代の人。父の綂は東魏の頴州長史となり、大統2年、刺史田迅を執らえて州を挙げて降り長安に至った。魏文帝は綂に「卿は頴川から我に従った、何日をもって忘れられようか」と述べ、即座に右衛将軍・散騎常侍・兗州刺史を拝させ当亭県公の爵を賜り、まもなく北雍州刺史を除せられ、卒して侍中・燕朔恒三州刺史・司空公を贈られ、諡を哀といった。
  • 敦は若くして気幹があり騎射を善くした。綂が迅を捕らえようと謀った際、事が成らぬことを慮り、また累弱の家族が多く自ら脱するのが難しく、久しく沈吟していた。敦は当時17歳で、進言して「大人(父上)はかつて葛栄に事え既に将帥となり、後に爾朱に入り礼遇はなお重く、韓陵の役では高歓に節を屈しました。既に故人でもなく功効もないのに、今日委任されるのは前と異なることがないのは、まさに天下が未だ定まらず英雄の力を藉りるためです。ひとたび清平となれば、どうして相容れる理がありましょうか。私の愚見では、将来に危亡の憂いがあると恐れます。どうか身を全うし害を遠ざけることを思い、顧念することがないようになさってください」と述べた。綂は涙を流してこれに従い、太祖への帰順を決めた。
  • 時に群盗が蜂起し各地の山谷に拠っていたが、大亀山の賊張世顕が密かに来て綂を襲うと、敦は身を挺して戦い、手ずから七八人を斬ると、賊は退走した。綂は大いに悦び左右の僚属に「私は若くして軍旅に従い戦陣は一度にとどまらないが、この児のような年齢での胆略の持ち主はまだ見たことがない、これはただ我が家門を成すだけでなく、当に国の名将となるだろう」と述べた。
  • 翌年、河内公独孤信に従い洛陽で囲まれた際、敦は弓を彎いて三射し矢は虚発なく、信は大いにこれを奇とし太祖に言上すると、太祖もこれを異とし麾下に引き入れ都督を授け安陵県伯・邑400戸に封じた。かつて太祖に従い甘泉宮で狩猟した際、囲みの人手が足りず獣の多くが逃げたので太祖は大いに怒り、人はみな股が震えた。囲みの中にただ一頭の鹿がおり、俄かにこれも囲みを突いて走ると、敦は馬を躍らせてこれを追い、鹿は東山を上ったので敦は馬を棄てて歩いて追い、山の半ばでこれを掣え引き下ろした。太祖は大いに悦び、諸将はこれにより責めを免れることができた。累遷して太子庶子・撫軍将軍・通直散騎常侍・大都督・車騎大将軍・散騎常侍儀同三司となり、広郷県侯に進爵した。敦は既に武芸があったので、太祖は常にこれを将帥に任じようとした。
  • 魏廃帝2年、右衛将軍を拝し、俄かに驃騎大将軍開府儀同三司を加えられ爵を公に進めた。時に岷蜀は初めて開かれ民情はなお梗ばっており、巴西人譙淹が南梁州に拠り梁の西江州刺史王開業と共に表裏をなし群蛮を扇動したので、太祖は敦に軍を率いてこれを討たせた。山路は艱険で人跡は罕であったが、敦は自ら将士に先んじ木に攀じ崖を縁って道を倍にして進み、その不意を突き、また儀同扶猛を遣わしその別帥向鎮侯を白帝に破らせた。淹は開業及びその党泉玉成・侯造らと衆7000口を率い累計3万で墊江から下り梁王琳のもとへ向かったが、敦はこれを邀撃して破った。淹はまた山に依って柵を立て、南に蛮帥向白彪を引いて援けとしたが、敦は反間を設けてその党与を離間させ、その懈怠に乗じて再びこれを破り、淹を斬ってその衆をことごとく俘虜とした。武都公に進爵、邑を通前1700戸に増やされ、典祀中大夫を拝し、まもなく金州都督七州諸軍事・金州刺史として出た。
  • 向白彪はまた蛮帥向五子らと衆を集めて寇となり信州を囲み逼ったので、詔により敦は開府田𢎞と共に救援に赴いたが、至らぬうちに城が既に陥落しており、進んで白彪らと戦いこれを破り、俘斬2000人を得て、そのまま進軍して追討しついに信州を平定した。この年、荆州の蛮帥文子栄が自ら仁州刺史を号し土人を擁して沮漳に拠って逆をなしたので、また敦に開府潘招と共に討たせ、子栄を擒えその衆を虜にした。武成元年、入朝して軍司馬となった。
  • 江陵の平定以来、巴湘の地はみな内属し常に梁人を遣わして守らせていたが、この時に至り陳将侯瑱・侯安都らが湘州を囲み逼り糧援を遏絶したので、敦に歩騎6000を率いて江を渡らせ救援に赴かせた。瑱らは敦が孤軍で深く入ったことからこれを取ろうと図ったが、敦はつねに奇伏を設けて連戦して瑱を破り、勝ちに乗じて径に進み湘州に次いだ。これにより敵を軽んじ虞れなくなったが、俄かに霖雨がやまず秋の水が氾濫し、陳人が師を済すと江路はついに断たれ、糧援も絶えて人は危懼を懐いた。敦はそこで兵を分けて抄掠させ資費に充て、瑱らがその糧の少なさを知ることを恐れ、営内に土を多く盛りその上を米で覆い、諸営の軍士を集めて各々嚢を持たせ、官司に部分させて糧を給するかのように見せかけ、あわせて近くの村民を召して尋ね事をするふりをして営外から遥かに見せてすぐに帰した。瑱らはこれを聞いて真実だと思い、要険に拠って日を稼ぎ敦の軍を疲弊させようとした。敦はさらに営塁を増修し廬舎を造って持久の構えを示すと、湘羅の間ではついに農業が廃れ、瑱らはこれをどうすることもできなかった。
  • 初め、土人はしばしば軽船に米粟及び鶏鴨の籠を載せて瑱の軍に贈っていた。敦はこれを患い、土人を装った船を作り甲士をその中に伏せると、瑱の兵は望み見て餉船が来たと思い先を争って取りに来たので、敦の甲士が出てこれを擒えた。敦の軍にはたびたび叛人が馬に乗って瑱のもとへ投じる者がありそのたびに受け入れられていたので、敦は別に一頭の馬を取り船へ牽いて向かわせ、船中で逆にこれを鞭打たせることを再三行うと、馬は船を畏れて上らなくなった。その後江岸に伏兵を置き人を遣わして瑱の軍を招き、投降を詐称させると、瑱はすぐに兵を遣わして迎接させ、争って馬を牽こうとしたが、馬は既に船を畏れて上らなかったので、敦は伏兵を発してこれを掩い、ことごとく殪した。これ以後実際に食糧を届けたり亡命して瑱のもとへ奔ろうとする者があっても、瑱はなお敦の設けた詐計だと思い、逆に遣わして防ぎ撃たせ、みな受け入れなかった。相持すること一年余り、瑱らはこれを制することができず、船を借りて敦を江を渡らせて送ることを求めたが、敦はそれが詐計かもしれないと慮り拒んで許さなかった。瑱はまた使者を遣わして「驃騎(敦)はここに既に長く居られる、今船を給して送りたい、なぜ去らないのか」と述べると、敦は「湘州は我が国家の地であり、爾らに侵逼された。敦が来た日は相い平殄しようとしたが、まだ一決を得ていないので去らない」と答えた。瑱は後日また使者を遣わすと、敦は使者に「必ず我が還るには、我に百里を舎(あ)けよ、そうすれば汝のために去ろう」と述べた。瑱らは船を江に留め、兵を率いて津路百里を去った。敦はこれが詐計でないことを覘い知ると、徐ろに舟檝を整え衆を率いて還った。軍中で病死した者は十五六に及び、晋公護は敦が地を失い功がなかったとして除名し庶民とした。
  • 保定2年、工部中大夫を拝し、まもなく金州総管七州諸軍事・金州刺史として出た。3年、柱国楊忠に従い突厥を引いて斉の長城を破り、并州まで至って還った際、敦は殿(しんがり)を務め、別に一子を順義県公・邑1000戸に封じられた。5年、中州刺史を除せられ函谷を鎮めた。敦は功を恃んで気を負い、同輩がみな大将軍となる中で敦だけがまだ得ておらず、加えて湘州の役で全軍を保って帰りながら旌賞を蒙らず、かえって除名されたことから常に怨怒を懐いていた。折しも台使が至ると怨言を発したため、晋公護は怒り敦を召還させ、自殺を強いた。時に年49。建徳初年、大将軍を追贈され、諡を烈といった。子の弼は文武の材略があり、大象末年に開府儀同大将軍・揚州刺史・襄邑県公に至った。敦の弟の誼もまた知名で、官は柱国・海陵県公に至った。