巴蜀平定の武功
- 陸騰は字を顕聖といい、代の人。高祖の俟は北魏征西大将軍・東平王。祖の弥は夏州刺史。父の旭は性が雅澹で老易緯候の学を好み、五星要訣及び両儀真図を撰し、頗るその指要を得た。太和年間、中書博士に徴拝され散騎常侍に遷ったが、天下の乱れを知って太行山に隠れた。孝荘帝が即位するとたびたび徴されたが起たず、後に并汾恒肆四州刺史を贈られた。
- 騰は若くして慷慨として大節があり、員外散騎侍郎・司徒府中兵参軍として起家した。爾朱栄が洛陽に入ると、騰を通直散騎侍郎・帳内都督とした。葛栄の平定に従い、功により清河県伯の爵を賜った。普泰初年、朱衣直閤に遷り、安平主(東莱王貴平の女)を娶った。魏孝武帝が貴平の邸に幸した際、騰と語って悦び、貴平に「阿翁は真に良い婿を得た」と述べ、即座に通直散騎常侍に抜擢した。孝武帝の西遷に及び、騰はその時青州に使いして鄴に没した。東魏興和初年、征西将軍に徴拝され陽城郡守を領した。大統9年、大軍が東討する際、騰が拠る地が衝要であったので先にこれを攻めた。時に兵威は甚だ盛んで、長史麻休は騰に降を勧めたが許さず、経月余り拒守し城が陥落し捕らえられた。太祖はこれを釈放して礼遇し、東方の消息を問うと、騰は東州の人物を盛んに陳べ、また時事を叙述してその弁舌は抑揚に富み、太祖は笑って「卿は真に本に背かぬ者だ」と述べ、即座に帳内大都督を拝させた。まもなく太子庶子を除せられ、武衛将軍に遷った。既に太祖に知られていたので功効を立てることを願い内職を求めず、太祖はこれを嘉した。13年、車騎大将軍儀同三司を拝した。
- 魏廃帝元年、安康の賊黄衆宝らが乱を作し漢中と連結して衆数万で東梁州を囲み、城中の糧が尽きると、詔により騰は軍を率い子午谷から救援した。騰は星のもとに道を急ぎ、至るとすぐに戦い大破した。軍が還ると龍州刺史を拝した。太祖は騰に「今、江由の路を通じ直ちに南奏に出ようと思う、卿はよく経略を思案せよ」と述べると、騰は「必ず機に臨んで変に制すつもりで、あらかじめ陳べることはできません」と答えた。太祖は「これは卿が柱国を取る日だ、卿は励め」と述べ、着けていた金帯を解いて賜った。
- 州民の李広嗣・李武らは巌険に憑って堡壁とし、不逞の徒を招き集めて郡県を攻劫し、歴代の政では治められなかった。騰は密かに多くの飛梯を造らせ、自ら麾下を率いて夜襲を行い、夜明け前に四面から一斉に登らせついにこれを破り、広嗣らを鼓の下で捕らえた。その党の任公忻はさらに徒衆を集めて州城を囲み逼り、騰に「広嗣及び武を免じさえすれば、兵を散じて罪を請う」と語った。騰は将士に「吾がもし広嗣らを殺さなければ、軍実を隳して寇讐を長ずることになる、それは為すべきでない。公忻は竪子でありながら人を要挟しようとしている」と述べ、即座に広嗣及び武を斬りその首を示すと、賊徒は気を阻喪した。そこで兵を出して奮撃し、尽くこれを獲た。魏恭帝3年、驃騎大将軍開府儀同三司を拝し、江州刺史に転じ、上庸県公・邑2000戸の爵を得た。
- 陵州の木籠獠は険に恃んで麤獷で、たびたび抄劫を行ったので、詔により騰がこれを討った。獠は山に因って城となしていたので攻めても抜けなかった。騰は城下に多くの声楽及び雑伎を設け戦意がないと見せかけると、賊は果たして兵仗を棄て、妻子を携えて城に臨み楽を観る者もあった。騰はその無備を知り密かに衆軍を一斉に登らせると、賊はみな恐惶して為す術を知らず、兵を縦って討撃しこれをことごとく破り、斬首1万級、俘獲5000人を得た。世宗の初め、陵眉戎江資邛新遂の八州の夷夏及び合州の民張瑜兄弟が並び反し、衆数万人で郡県を攻破すると、騰は兵を率いてこれを討ち、潼州刺史に転じた。武成元年、詔により騰が入朝すると、世宗は自ら「益州は険遠で、近しい者でなければ居させられない、それゆえ斉公に鎮させたが、卿の武略はすでに遠近に知られており、兵馬鎮防はみな卿に統摂を委ねるべきだ」と勅し、隆州刺史に徙して憲(斉公)に従い蜀に入った。趙公招が憲に代わると、また騰を留めることを請うた。保定元年、隆州総管領刺史に遷った。
- 2年、資州槃石の民が反し郡守を殺し険に拠って自守し、州軍では制圧できなかったので、騰は軍を率いて討撃しことごとく破り斬った。しかし蛮獠の兵が各所で蜂起し、山路は険阻で掩襲しにくかったので、騰は山川の形勢を測り便宜に応じて道を開くと、蛮獠は威を畏れ風になびいて服を請うた。開いた道には古の銘が多く見つかり、いずれも諸葛亮・桓温の旧道であった。この年、鉄山の獠が内江の路を抄断し使駅が通じなくなると、騰は進軍してこれを討ち、鉄山に至るところで偽って師を還すと見せかけたので、賊は虞れることなく守備を怠った。騰は不意にこれを撃つと即座に奔潰し、一日でその三城を下し、その魁帥を斬り、俘獲3000人、降附を招納した者は3万戸に及んだ。
- 帝は騰の母が斉にいることから東討を命じずにいた。ちょうどその親属が東方から朝廷に還る者があり、晋公護は命を奉じて偽って騰に「斉は無道で、既に公の家の母兄を誅し、みな塗炭に落とした」と告げた。これは騰の怒りを発させようとしたものであった。騰はそこで哀を発して泣血し、復讐を志した。4年、斉公憲が晋公護と共に東征する際、騰を副とすることを請うたが、趙公招は当時蜀にあり再びこれを留めようとした。晋公護は招に書を送り「今朝廷は斉公に河洛を掃蕩させようとしており、この人(騰)と同行させたい、汝の地には事がない、しばらく吾に貸してほしい」と述べた。そこで騰を伝馬で朝廷に馳せ入らせ、憲の東討の副とした。5年、司憲中大夫を拝した。天和初年、信州の蛮蜑が江峡に拠って反乱し2000余里に連結し、王侯を自称し刺史守令等を殺したので、また詔により騰が軍を率いてこれを討った。騰はまず益州に赴き驍勇の士を進め楼船をあわせ具えて外江を沿って下り、軍は湯口に至り分道して奮撃し、向かうところみな摧破し、京観を築いて武功を旌した。詳細は蛮伝にある。
- 涪陵郡守藺休祖もまた楚・向・臨・容・開・信等の州に拠り地方2000余里で兵に阻んで乱を為したので、再び詔により騰がこれを討った。初め大戦して斬首2000余級、俘獲1000余人を得たが、当時その鋒を摧いたものの賊衆はなお多く、夏から秋にかけ戦わない日はなく、師は老い糧は尽きた。そこで軍を留めて市を集め、あらためて方略を考えた。賊は騰が出ないのを見て四面から競って前進したが、騰は衆を激励すると士はみな争って奮い、再びその魚令城を攻抜し、糧儲を大いに獲て軍実に充て、また銅盤等七柵を破った。前後の斬獲は4000人及び船艦等に及び、また臨州・集市の二城を築いてこれを鎮遏した。騰は龍州にあった時からこの時まで前後して諸賊を破平し、賞して得た奴婢は800口、馬牛もこれに称するほどで、これにより巴蜀はことごとく定まり、詔により碑を樹てて功績を記した。
- 4年、江陵総管に遷った。陳がその将章昭達に衆5万・船艦2000を率いさせ江陵を囲むと、衛王直は陳の寇があると聞いて大将軍趙誾・李遷哲らを遣わし歩騎を率いて赴かせ、みな騰の節度を受けさせた。時に遷哲らは外城を守っていたが、陳将程文季・雷道勤が夜に来て掩襲すると、遷哲らは驚乱して抗禦できなかった。騰は夜、開門させて甲士を出し奮撃させこれを大破すると、陳人は奔潰し、道勤は流矢に中って斃れ、虜獲200余人を得た。陳人はまた竜川・寧邦の堤を決壊させ水を引いて江陵城に灌ぐと、騰は自ら将士を率いて西堤で戦いこれを破り、斬首数千級、陳人はついに遁走した。6年、柱国に進位し、上庸郡公に進爵、邑を通前3500戸に増やされた。建徳2年、大司空に徴拝され、まもなく涇州総管として出た。宣政元年冬、京師で薨じ、本官を贈られ并汾等五州刺史を加えられ、さらに大後丞を重贈され、諡を定といった。
- 子の玄が嗣いだ。玄は字を士鑒といい、騰が入関した時わずか7歳であったが、斉に仕えて奉朝請となり、成平県令を歴任した。斉の平定後、高祖は玄を見て特に労勉を加え、地官府都上士を拝させた。大象末年、隋文帝の相府内兵参軍となった。玄の弟の融は字を士傾といい最も知名で、若くして顕職を歴任し、大象年中に大将軍・定陵県公に至った。