太祖擁立の功と単騎の武勇
- 梁臺は字を洛都といい、長池の人。父の去斤は北魏献文帝の時、隴西郡守。臺は少くして果敢で志操があった。孝昌年間、爾朱天光に従い関隴を討平し、一年の中に大小20余戦、功により子都督を授けられ隴城郷男の爵を賜った。普泰初年、都督を授けられ、後に侯莫陳悦に隷属し南秦州の群盗を討ちこれを平定し、悦は臺を上表して仮節・衛将軍・左光禄大夫とし、隴城県男・邑200戸に封じ、まもなく天水郡事を行い、趙平郡事に転じ、頻りに郡を治めて声績があった。
- まもなく天光は臺を追い還し帳内に引いた。天光が寒陵で敗れると賀抜岳がまた心膂に引いた。岳が侯莫陳悦に害されると、臺は諸将と太祖を翊戴することを議し、悦の討伐に従いこれを破り、天水郡守を拝した。大統初年、また趙平郡守を除せられ、太僕石猛と共に両山の屠各を破り、詔により邑100戸を増やされ、平涼郡守に転じた。時に莫折後熾が結集して軽剽で居民を寇掠し、州刺史史寧がこれを討ったが久しく克てなかった。臺は賊の形勢を陳べ攻取の策を論じ、寧はこれを善しとして従い、ついに賊徒を破った。また于謹と共に劉平伏を破り、前後の勲を録され頴州刺史を授けられ賀蘭氏の姓を賜った。玉壁の救援に従い、邙山に戦い帥都督を授けられた。大統15年、南夏州刺史を拝し通直散騎常侍・本州大中正を加えられ邑200戸を増やされた。
- 魏廃帝2年、使持節車騎大将軍儀同三司に遷り、驃騎大将軍開府儀同三司に進み侍中を加えられた。孝閔帝の践阼で中部県公に進み邑を通前1000戸に増やされた。武成年間、賀蘭祥に従い洮陽を征し先登の功があり、別に綏安県侯・邑1000戸に封じられ、詔によりその子元慶に転授することを許された。保定4年、大将軍を拝した。時に大軍が洛陽を囲んで久しく抜けず、斉の騎兵が奄かに至り、斉公憲は兵を率いてこれを禦いだが、数人が敵に捕らえられ既に陣を離れること200余歩に及んだ。臺はこれを望見して憤怒し単馬で突入し二人を射殺すると、敵はみな披靡し、捕らえられた者は還ることができた。斉公憲は常に「梁臺の果毅胆決は及ぶところではない」と嘆じた。5年、鄜州刺史を拝した。
- 臺は性が疎通で己を恕し人に接し、民に臨み政を為すにはとりわけ仁愛を心とし、識る字は千余字を過ぎなかったが、口述の書啓は辞意に見るべきものがあった。60歳を過ぎてもなお甲を被り馬に跨り、鐙を踏まずに馳射・弋猟して矢を無駄にしなかった。後に病により卒した。