「人人𢎞のごとくあらば」と称えられた武将
- 田𢎞は字を広略といい、高平の人。少くして慷慨として功名を立てる志があり、膂力は人に過ぎ、敢勇で謀略があった。北魏永安年間、万俟醜奴に陥れられたが、爾朱天光の入関に際し𢎞は原州から帰順し都督を授けられた。太祖が初めて軍衆を統べた時、𢎞は謁見を求め、世事を論じて深く引き立てられ、爪牙の任に処せられた。また魏孝武帝を迎えた功により鶉陰県子・邑500戸に封じられた。太祖は常に自ら着ていた鉄甲を𢎞に賜り、「天下が定まれば、この甲を持って孤(われ)に見せよ」と述べた。
- 大統3年、帥都督に転じ爵を公に進めた。太祖に従い𢎞農を復し、沙苑に戦い、洛陽の囲みを解き、河橋の陣を破り、𢎞の功は多くを占め、たびたび殊賞を蒙り紇干氏の姓を賜り、まもなく原州刺史を授けられた。𢎞の勲望が兼ね至ったことから、衣錦をもってこれを栄とした。太祖が同州にあり文武が集うと「人人𢎞のごとく尽心すれば、天下はどうして早く定まらないことがあろうか」と述べ、即座に車騎大将軍儀同三司を授けた。魏廃帝元年、驃騎大将軍開府儀同三司を加えられた。
- 蜀の平定後、梁の信州刺史蕭韶らがそれぞれ所部に拠り朝化に従わなかったので、詔により𢎞がこれを討平した。また西平の叛羌及び鳳州の叛氐等を討ちみな破った。𢎞は陣に臨むたびに鋒を摧いて直進し、身に百余箭を被り、骨を破られたもの九、馬は十矟を被るほどで、朝廷はこれを壮とした。信州の群蛮が反すると、また詔により𢎞は賀若敦らとこれを平定した。孝閔帝の践阼で鴈門郡公に進み邑を通前2700戸とした。保定元年、岷州刺史として出た。𢎞は武将でありながら動もすれば法式に遵い、百姓は頗る安んじた。3年、隋公楊忠に従い斉を伐ち大将軍を拝した。翌年また忠に従い東伐し、師が還ると鎮に戻った。吐谷渾が西辺を寇し宕昌羌が密かに呼応すると、詔により𢎞がこれを討ち、その25王を獲て72柵を抜き、ついに破平した。
- 天和2年、陳の湘州刺史華皎が来附すると、𢎞は衛公直に従い赴援し陳人と戦って不利となり、そのまま𢎞を江陵総管とした。陳将呉明徹が来寇すると𢎞は梁主蕭巋と共に総南に退保し、副総管高琳に守らせ、明徹が退くとようやく江陵に還った。まもなく𢎞は仁寿城主となった。宜陽に迫ったため、斉将段孝先・斛律明月が軍を出し隴を定めて宜陽の援としたが、𢎞は陳公純と共にこれを破り、ついに宜陽等九城を抜いた。功により邑500戸を増やされ柱国大将軍に進位した。建徳2年、大司空を拝し少保に遷った。3年、総管襄郢昌豊唐蔡六州諸軍事・襄州刺史として出て州で薨じた。子の恭が嗣ぎ、若くして名誉があり早くから顕位を歴任し、大象末年に柱国・小司馬に至った。朝廷はまた𢎞の勲を追録し、恭の爵を観国公に進めた。