周書卷二十七 列傳第十九 辛威

質実温厚な功臣

  • 辛威は隴西の人。祖の大汗は北魏渭州刺史、父の生は河州四面大都督。威は少くして慷慨の志略があり、初め賀抜岳に従い征討して功があり、仮輔国将軍・都督となった。太祖が岳の軍衆を統べると、威を奇才と見て帳内に引き、まもなく羽林監を授け白土県伯・邑500戸に封じた。魏孝武帝を迎える際、回洛城を攻めた功が最大であった。大統元年、寧遠将軍を拝し邑200戸を増やされ、累遷して通直散騎常侍となり、侯に爵を進め邑300戸を増やされた。竇泰を擒え𢎞農を復し沙苑を破り、みな先鋒として陥陣し勇は当時に冠たり、前後の功で撫軍将軍・銀青光禄大夫を授けられた。于謹に従い襄城を破り、独孤信に従い洛陽に入り河橋の陣を経て、持節を加えられ爵を公に進め邑800戸を増やされた。5年、揚州刺史を授けられ大都督を加えられた。13年、車騎大将軍儀同三司・驃騎大将軍開府儀同三司に遷り、普毛氏の姓を賜り鄜州刺史として出た。威は時望が既に重く、朝廷は郷里の栄えとして河州刺史・本州大中正に遷し、たびたび二鎮を領して民の和を得た。閔帝の践阼で大将軍を拝し枹罕郡公に進み邑5000戸を増やされた。司馬消難が来附すると威は達奚武と共に軍を率いて援接した。保定初年、また兵を率いて丹州の叛胡を討ちこれを破った。3年、達奚武と共に陽関を攻めこれを抜いた。翌年、尉遅迥に従い洛陽を囲み、還って小司馬を拝した。天和初年、柱国に進位し、また行軍総管として綏銀等諸州の叛胡を討ちみな平定した。6年、斉王憲に従い東伐し伏龍等五城を抜いた。建徳初年、大司寇を拝し、3年、少傅に遷り、寧州総管として出た。宣政元年、上柱国に進位し、大象2年、宿国公に進封され邑を并せて前と5000戸に増やされ、再び少傅となった。その年の冬に薨じた。時に年69。威は性が持重で威厳があり、数十年官を歴任して過ちを犯すことがなく、身名を全うすることができた。その家門は友義に篤く五世同居し、世はこれを称えた。子の永達が嗣ぎ、大象末年に威の勲により儀同大将軍を拝した。