辺境守備の功臣
- 常善は高陽の人、世々豪族。父の安成は北魏正光末年、茹茹が辺を寇すると統軍として鎮将慕容勝に従い戦ってこれを大破した。時に破六汗抜陵が乱を起こし安成を逼ろうとしたが従わず、所部を率いて陵を討ち、功により伏波将軍・鼓節を給された。後に抜陵と連戦し陣で卒した。
- 善は北魏孝昌年間、爾朱栄に従い洛陽に入り、威烈将軍・都督を授けられ、龍驤将軍・中散大夫・直寝を加えられ、房城県男・邑300戸に封じられた。後に太祖に従い侯莫陳悦を平定し、天水郡守を除せられた。魏孝武帝の西遷後、武衛将軍を授けられ武始県伯に進み邑200戸を増やされた。大統初年、平東将軍を加えられ侯に爵を進めた。竇泰を擒え𢎞農を復し沙苑を破り、たびたび戦功があり、使持節・衛将軍・仮驃騎大将軍・秦州刺史を除せられた。4年、河橋の戦に従い大都督を加えられ、爵を公に進め涇州刺史を除せられた。茹茹が北辺に入寇し抄掠すると善は所部を率いてこれを破り、掠奪されたものをすべて取り戻し、車騎大将軍儀同三司を拝し、驃騎大将軍開府儀同三司・西安州刺史に遷り、蔚州刺史に転じ、三蕃を頻繁に治め政績があった。魏恭帝2年、永陽郡公に進み邑2000戸を増やされた。孝閔帝の践阼で大将軍・寧州総管を拝した。保定2年、入朝して小司徒となった。4年、突厥が出師し隋公楊忠と東伐した際、善に応接させた。5年夏、卒した。時に年64。使持節柱国大将軍・大都督・延夏塩恒燕五州諸軍事・延州刺史を贈られた。子の昇和が嗣ぎ、先に善の勲により儀同三司を拝していた。