周書卷二十七 列傳第十九 蔡祐

太祖に「子」と呼ばれた忠勇

  • 蔡祐は字を承先といい、先は陳留圉の人。曾祖の紹は夏州鎮将となり高平に移り家を構えた。祖の護は北魏景明初年に陳留郡守。父の襲は西州に名を知られ、正光年間に万俟醜奴が関中を寇乱すると、襲は賊に背き妻子を棄てて洛陽に帰り、斉安郡守を拝した。魏孝武帝の西遷の際は関東に留まり、後にようやく難を脱して西に帰り、平舒県伯の爵を賜り岐夏二州刺史を除せられ、卒して原州刺史を贈られた。
  • 祐は聡敏で行検があった。襲が賊に背いて東に帰った時、祐は14歳、母に事えて孝で聞こえ、成長すると膂力があり騎射を善くした。太祖が原州にあった時、帳下親信に召された。太祖が夏州に遷ると祐は都督とされた。侯莫陳悦が賀抜岳を害すると、諸将は使者を送り太祖を夏州に迎えようとしたが、首望の弥姐元進らは陰に異計を抱いていた。太祖は密かにこれを知り、先に祐と元進を捕らえることを議した。祐は「狼子の心は必ず反噬する、今もし縛り捕らえるなら殺すに如くはない」と述べ、太祖は「汝は大いに決断するな」と言った。そこで元進らを召して事を計らせ、太祖は「隴の賊が逆乱し諸人と力を戮せてこれを討とうとしているが、諸人の中には様子の異なる者があるようだ」とこの言葉で揺さぶり、祐に目配せした。祐はすなわち外に出て甲を着け刀を持って直入し、瞋目して諸人を叱り「人と朝に謀り夕べに異にするとは、豈に人であろうか。蔡祐は今日必ず奸人の頭を斬る」と述べ、剣を按じて臨むと、座の者はみな叩頭して「選び分けていただきたい」と述べた。祐はすなわち元進を叱って斬り、その党もみな誅に伏し、一座は震え上がって仰視できなかった。これにより諸将と結盟し心を同じくして悦を誅した。太祖はこれにより祐を重んじ、「吾は今爾を子とする、爾はその父として吾に事えよ」と述べた。
  • 後に討伐に従い悦を破り、また魏孝武帝を潼関に迎えた功により、前後の功で萇郷県伯・邑500戸に封じられた。大統初年、寧朔将軍・羽林監を加えられ、まもなく持節員外散騎常侍となり、侯に爵を進め邑1100戸を増やされた。太祖に従い竇泰を擒え、𢎞農を復し、沙苑に戦い、みな功があり平東将軍・太中大夫を授けられた。また太祖に従い河橋に戦った際、祐は馬を下りて歩戦し手ずから数人を殺した。左右が急変に備え乗馬するよう勧めたが、祐は怒って「丞相は我を子のごとく養ってくれた、今日どうして性命を惜しもうか」と述べ、左右10余人と共に声を斉しくして大呼し殺傷は甚だ多かった。敵はその後継がないことから包囲すること10余重に及んだ。敵が祐に「見たところ勇士のようだ、ただ甲を弛めて降れば富貴がないことを憂うることもあるまい」と述べると、祐はこれを罵り「死んだ兵卒め、吾は今頭を取ってでも自ずと公に封じられよう、賊の官号など仮りる必要はない」と述べ、弓を彎き満を持して四面に拒んだ。東魏人はあえて逼らず、厚甲長刀の者を募って直進させた。祐から30歩の距離まで来ると、左右が射るよう勧めたが、祐は「吾らの性命は一矢にかかる、どうして無駄に発てようか」と述べ、敵が10歩ほどに迫ると射て正しくその顔に中て、弦に応じて倒れると矟で刺し殺した。この戦で数合、失ったのはただ一人、敵はやや退き、祐は徐ろに引き退いた。この戦は我が軍が不利であったが、太祖は既に還っており、祐が𢎞農に至り夜中に太祖と会うと、太祖は祐が来たのを見て「承先、爾が来たからには吾に憂いはない」と字して呼んだ。太祖は心驚いて眠れなかったが、祐の股を枕にしてようやく安んじた。功により爵を公に進め邑300戸を増やされ、京兆郡守を授けられた。
  • 9年、東魏豫州刺史高仲密が州を挙げて来附し、太祖は軍を率いて援け、斉神武と邙山で戦った。祐はこのとき明光鉄鎧を着け、向かうところ敵無く、敵人はみな「これは鉄の猛獣だ」と言ってみな遽かに避けた。俄かに青州刺史を授けられ、原州刺史に転じ帥都督を加えられ、まもなく大都督を除せられた。13年、父の喪に遭い喪紀を終えることを請うたが許されず、車騎大将軍儀同三司に遷り、驃騎大将軍開府儀同三司侍中を加えられ、大利稽氏の姓を賜り懐寧郡公に進んだ。魏恭帝2年、中領軍。六官が建てられると兵部中大夫を授けられた。江陵が初めて帰附すると諸蛮が騒動し、詔により祐は大将軍豆盧寧と共にこれを討平した。3年、大将軍を拝し後部鼓吹を給され、前後の功により邑を并せて4000戸に増やされ、別に一子を県伯に封じた。太祖が不予(病)となると、祐は晋公護・賀蘭祥らと共に侍疾し、太祖が崩じると祐は悲慕やまず、ついに気疾を得た。
  • 孝閔帝の践阼で少保を拝した。祐は尉遅綱と共に禁兵を掌り、遞に殿省に直った。時に帝は司会李植らを信任し晋公護を害そうと謀ったが、祐はそのたびに泣いて諫めたが、帝は聴かなかった。まもなく帝は廃され世宗が即位すると、小司馬・少保として旧のごとくとされた。帝がまだ公子であった時から祐と特に親しく、この時に至って礼遇はますます厚く、御膳に珍味があれば必ず分けて祐に賜り、群臣の朝宴でもたびたび別に留められ、昏夜に至って炬を列ね笳を鳴らして祐を宅に送ることもあった。祐は過度な礼遇を蒙ることから常に病と称して避け、婚姻についてもとりわけ勢要と結ぶことを望まなかった。まもなく本官のまま原州を権鎮し、しばらくして宣州刺史を授けられたが赴任前に、先の気疾が発って原州で卒した。時に年54。
  • 祐は若くして大志があり、郷人の李穆と布衣の頃から名を斉しくし、かつて互いに「大丈夫たるもの功名を建て富貴を取るべきだ、どうして久しく貧賎に処していられようか」と語り合い、言い終えて共に大笑した。穆はすなわち申公である。後にみなその言葉のとおりとなった。征伐に従うたびに囲みを潰し陣を陥として士卒の先頭に立ち、軍が還る日には諸将が功を争ったが、祐はついに競うことがなく、太祖はこれに感嘆し諸将に「承先は口に勲を言わない、孤(われ)が代わってその功を論じ叙べよう」と述べた。その見識はこのようなものであった。性は節倹で、得た禄はみな宗族に散じ与え、死の日には家に余財がなかった。使持節柱国大将軍・大都督・五州諸軍事・原州刺史を贈られ、諡を荘といった。子の正が嗣ぎ、官は使持節車騎大将軍儀同三司に至った。
  • 祐の弟の沢は学を好み幹能があり、魏の広平王参軍・丞相府兼記室から起家し、宣武将軍・給事中を加えられた。尉遅迥に従い蜀を平定し帥都督を授けられ、安弥県男の爵を賜り、司輅下大夫・車騎大将軍儀同三司・澧州刺史に遷った。在州中に賄賂を受けたが、総管の代王達はその功臣の子弟であることから密奏してこれを許した。後に邙州刺史となり司馬消難に従わず、害された。