周書卷二十七 列傳第十九 赫連逹

太祖擁立の建議

  • 赫連逹は字を朔周といい、成楽の人。夏の赫連勃勃の後裔。曾祖の厙多汗が難を避けて杜氏に改姓した。逹は性剛鯁で胆力があり、若くして賀抜岳に従い征討して功を立て、都将を拝し長広郷男の爵を賜り、都督に遷った。
  • 岳が侯莫陳悦に殺害されると軍中は大いに騒然となった。趙貴が太祖(宇文泰)を迎え入れるべきと建議したが、諸将は猶予して決しなかった。逹は「宇文夏州は昔左丞であり、明略は人に過ぎた一時の傑物。今日の事はこの公でなければ済まない。趙将軍の議は正しい」と述べ、自ら軽騎で赴き哀を告げて迎えることを願い出た。諸将の中には南下して賀抜勝を追おうとする者、東に朝廷へ告げようとする者もいたが、逹は「みな遠水は近火を救わぬの類、何を今更論ずるか」と述べ、貴の議は定まった。逹を馳せ向かわせると、太祖は逹を見て慟哭し、事情を問い、逹はありのままに答えた。
  • 太祖はついに数百騎で平涼に南下し、軍を高平に向け、逹に騎兵を率いて弾筝峡を占拠させた。当時百姓は恐れ奔散する者が多く、数村の民が老幼を扶け家畜を駆り山に入って避難しようとしたので、軍士は争ってこれを掠めようとしたが、逹は「遠近の民は賊に制せられていることが多い。今もし機に乗じて掠め縛るなら、何を伐罪弔民と言えようか。むしろこれを撫でて義師の徳を示すべきだ」と述べ、恩信をもって撫し、民はみな悦んで帰服し、互いに諭し合って旧業に復した。太祖はこれを聞いて嘉した。
  • 悦の平定後、平東将軍を加えられた。太祖は諸将に「清水公(賀抜岳)が禍に遭った時、諸君の性命は賊の手に懸かり、告げようにも道がなかった。杜朔周(逹)は万死の難を冒して遠く来て知らせ、共に忠節を尽くし讐恥を雪ぐことができた。衆人の力によるとはいえ、実に杜子の功による。労に報いねば善を勧めることができない」と述べ、馬200匹を賜ったが、逹は固辞し、太祖は許さなかった。
  • 魏孝武帝の入関後、逹が首謀して元帥を迎え秦隴を匡復した功により魏昌県伯・邑500戸に進んだ。儀同李虎に従い曹泥を破り、鎮南将軍・金紫光禄大夫を除せられ、通直散騎常侍を加えられ邑を并せて前と1000戸に増やされた。𢎞農を復し沙苑に戦い、みな功があり、また邑800戸を増され、泉郡守を除せられ、帥都督に転じ、持節を加えられ済州刺史を除せられた。詔により赫連氏の姓を復した。逹の勲望が兼隆であったため雲州(すなわち本州)刺史を除せられ、爵は公に進み大都督を拝し、まもなく儀同三司を授けられた。
  • 大将軍達奚武に従い漢中を攻めた際、梁の宜豊侯蕭循は長く拠守した末に降を送った。武が諸将に進退の宜を問うと、開府賀蘭願徳らは食が尽きたことから急ぎ攻取を欲したが、逹は「戦わずして城を得るのは策の上なるもの。その子女を利し財帛を貪り兵を窮め武を極めるのは仁者のなすことではない。かつその士馬はなお強く城池もなお固く、これを攻めて克ったとしても必ず彼我共に損なう。困った獣なお闘うがごとくとなれば成敗も測れない。まして用兵の道は全軍を上とする」と述べた。武は「公の言うとおりだ」と述べ、諸将にそれぞれの意見を述べさせると、開府楊寛らもみな逹の議に同じた。武はついに循の降を受け入れ、師を還した。驃騎大将軍・開府儀同三司に遷り、侍中を加えられ、藍田県公に進んだ。六官が初めて建てられると左遂伯を授けられ、隴州刺史として出た。保定初年、大将軍・夏州総管・三州五防諸軍事に遷った。
  • 逹は文吏ではないが性質直で法度を遵奉し、鞭撻は軽くし死罪は重んじて慎んだ。性はまた廉倹で、辺境の胡民が羊を逹に贈ったとき、逹は異類を招納しようと繒帛で報いようとしたが、主司が官物を用いるよう請うと、逹は「羊は我が厨に入り、物は官庫から出す、これは上を欺くことだ」と述べ、私帛を取り与えた。識者はその仁恕を嘉した。まもなく楽川郡公に進んだ。建徳2年、柱国に進位して薨じた。子の遷が嗣ぎ、大象年中に大将軍・蒲州刺史に至った。