周書卷二十六 列傳第十八 斛斯徴

雅楽の再興

  • 斛斯徴は字を士亮といい、河南洛陽の人。父の椿は太傅・尚書令。徴は幼くして聡頴、5歳で孝経・周易を誦じ、識者はこれを異とした。長じて群書を博渉し、特に三礼に精通、音律も理解した。至孝の性質があり、父の喪に居るとき朝夕わずかな米だけで過ごした。父の勲功により太常卿に累遷した。
  • 北魏孝武帝の西遷以来、雅楽は廃れていたが、徴は遺逸を広く採り典故を考証して新たに改め創り、ようやく完備させた。また楽器に錞于というものがあり、近代には絶えて存在しなかったが、蜀から得た者があっても誰もそれと識らなかった。徴はこれを見て「これは錞于だ」と述べたが衆は信じず、徴は干宝の周礼注に依り芒筒でこすったところその音が大いに振るい、衆はついに感服した。徴はこれを取って楽に合わせた。
  • 六官が建てられ司楽中大夫を拝し、驃騎大将軍・開府に進んだ。後に高祖は徴が経学に師法があるとして皇太子への教授を命じた。宣帝の時代、魯公として諸皇子とともに青衿を着け束脩の礼を行い徴に学び、徴を「夫子」と呼んだので儒者たちはこれを栄誉とした。

諫言と獄からの脱出

  • 宣帝が即位すると上大将軍・大宗伯に遷った。高祖が崩じたばかりで梓宮がまだ殯にある時、帝は速やかに葬ろうとし朝臣に議論させたが、徴は内史宇文孝伯らと共に礼に従い七月を守るよう固く求めた。帝はついに許さなかった。
  • 帝がまだ太子であった時、宮尹鄭訳は正道で輔導できなかった罪により除名されていたが、帝は雅にこれを親愛しており、このとき訳を内史中大夫に任じ大いに委任した。訳は新楽十二月各一笙(一笙十六管)を献上し、帝は徴と議論させたところ、徴は反駁して奏し、帝はほぼこれを容れた。高祖の山陵から帰った後、帝が楽を作ろうとし再びその可否を議論させると、徴は「孝経に『楽を聞いて楽しまず』とある、聞くことすら楽しまないのに、まして作ることなどありえない」と述べた。鄭訳は「聞くと言うなら無いわけではない、楽しまないだけでどうして奏さないことがあろうか」と述べ、帝は訳の議論に従った。訳はこれを恨みに思った。
  • 帝は後に放縦になり、昏虐は日々甚だしくなった。徴は高祖の重恩を受け師傅の位にあったことから、生きて諫めなければ死してどうして高祖に見えようかと考え、上疏して極諫し帝の過失を指摘した。帝は納れず、訳はこれを讒言し徴を獄に下した。獄卒の張元はこれを哀れみ、佩刀で獄の壁に穴を開けて徴を脱出させた。元は拷問を受けたが最後まで何も言わず死んだ。徴は赦に遇い免れた。
  • 隋文帝の即位後、旧例により官に復し太子太傅を除せられ、詔により楽書の編纂を命じられた。開皇初年に薨じた。子は諺。徴の撰した『楽典』十巻がある。