幼少期の才知
- 長孫紹逺は字を師といい、河南洛陽の人。幼名は仁。父の稚は北魏の太師・録尚書・上党王。紹逺は性格が寛容で大度あり、その風采は望むだに□(底本欠字)然として朋輩も馴れ馴れしくできなかった。書籍を好み、聡慧は人に優れていた。
- 父稚が寿春の牧であったとき紹逺は13歳。稚の管記王碩は紹逺の記憶力の良さを聞いて疑い、稚に「世子の聡慧の資質は天性から発し、一目見れば口に誦じると伺いますが、これは希有のこと、ぜひ試させてください」と申し出た。紹逺に月令を数紙読ませたところ、一遍で流れるように誦じてみせ、碩は感服した。
- 北魏孝武帝の初め、累遷して司徒右長史。斉の神武(高歓)が挙兵し孝武帝が西遷すると、紹逺は父稚に従い赴いた。さらに累遷して殿中尚書・録尚書事となった。太祖は常に群公へ「長孫公に任務を任せると人に後顧の憂いをなくさせる。漢の蕭何・曹参も及ばない」と語り、その容儀は堂々として当代の模範であるとした。六官が建てられると大司楽を拝し、孝閔帝の践阼で上党公に封じられた。
雅楽の整備と諫言
- 初め紹逺は太常として広く工人を召し楽器を創造させたが、黄鐘の音律が調わず常に気にかけていた。ある日退朝の途中、韓使君の仏寺前を通ると三層の浮図の上に鳴る鐸があり、その音が宮調に雅かに合うのを聞き、これを取って演奏に配したところようやく調和した。紹逺は世宗に奏してこれを施行させた。
- 紹逺の奏楽は八を数とするもので、梁の黄門侍郎裴正は上書し、昔舜が七始を聞こうとし、周の武王に至って七音を創始したことを引いて、林鐘をもって黄鐘を作り正調の首とすべきと論じた。詔により紹逺と往復して詳議させ、結局八を数とすることに定まった。小司空を授けられた。
- 高祖(宇文邕)は史書を読み、武王が殷に克って七始を作ったことを見て、八を廃し七を懸け、あわせて黄鐘の正宮も廃して林鐘を調首としようとした。紹逺は「天子の懸は八であり、先民に始まり百王共に守り万世変わらぬもの。周の武王に至って初めて七始の音を修めたが、経義を詳しく見ても八を廃す典はない。かつ黄鐘は君であり天子の正位、今これを廃そうというのは可としがたい」と奏したが、後に高祖はついに七音を廃した。
- ちょうど紹逺は病に罹り面陳できず、有司が急いで楽器を損なうことを恐れて楽部の斉樹之に書を送った(以下欠)。後に病が重くなり遺表を上げてなお諫言し、そのまま卒した。帝は表を見て涙を流し深く痛惜した。
長孫澄(字士亮)――太祖に重んじられた武功と清廉
- 澄は字を士亮という。10歳のとき司徒李琰之が見て奇才と認め、娘を娶らせた。14歳で従軍し謀略があり、勇は諸将に冠たり、成長すると容貌魁岸、風儀温雅であった。北魏孝武帝の初め、征東将軍・渭州刺史。
- 魏文帝がかつて太祖及び群公と宴した際、「孝経一巻は人の行いの本、諸公おのおの要言を引くべし」と述べると、澄は即座に「夙夜匪懈、以事一人」(常に怠らず主君に仕える)と応じた。座中の別の者が続けて「匡救其惡」と答えたところ、太祖は澄の機に合った受け答えを深く称賛し、次に答えた者を譴責した。
- 後に太祖に従い玉壁を救援し、邙山の戦いにも従軍、驃騎大将軍・開府に進んだ。孝閔帝の践阼で大将軍を拝し義門公に封じられ、玉壁総管となり、その地で卒した。世宗は喪の初めから葬儀に至るまで三度自ら臨んだ。典祀中大夫の宇文容が「君が臣の喪に臨むには節度がある。しばしば行幸するのは礼典に背く恐れがある」と諫めたが、世宗は従わなかった。
- 澄は操行清廉倹約で、家に余財がなかった。太祖はかつて「私は公との間に惜しむものはない、必要なものがあれば申し出よ」と言ったが、澄は「私は頭から足先まで全て明公の恩によるもの、今実に必要な物はない」と答えた。賓客を丁寧に接し疲れを厭わず、酒は飲まないが人が酔うのを見るのを好み、客が帰りたがるのをいつも恐れて厨房に別の珍味を用意させ引き留めた。
長孫兕(字若汗)
- 兕は字を若汗という。機弁で記憶力に優れ博聞、賓客との交遊を重んじ談論を善くした。北魏孝武帝の西遷に従い、天和年間の初め累遷して驃騎大将軍・開府、絳州刺史に遷った。