周書卷二十 列傳第十二 閻慶

閻慶は字を仁慶といい、河南河陰の人。父祖代々武功の家に生まれ、魏孝武帝西遷後に太祖のもとへ帰参して忠節を尽くした。河州・寧州刺史を歴任し柱國に至った。晉公護に阿らぬ清廉な人柄で知られ77歳で没した。

年表(5件)

出自と生涯

  • 閻慶、字は仁慶。河南河陰の人。曾祖父の善は魏に仕え龍驤将軍雲州鎮将を歴任し、雲州盛樂郡に家を構えた。祖父の提は使持節車騎大将軍燉煌鎮都大将、父の進は謀略に優れ勇猛で知られ、正光中に龍驤将軍を拝した。衛可孤の乱で盛樂が攻囲された際、進は衆を率いて三年にわたり昼夜戦い抜き、少数で多数を防いで城を守り抜いた功で盛樂郡守となった。
  • 慶は幼くして聡敏で信義に篤く、威儀端正であった。衛可孤による盛樂侵攻の際は父に従い籠城戦に貢献し、別将を拝し、輕車将軍加給事中、のち軍功により歩兵校尉中堅将軍を授かった。齊神武(髙歡)が挙兵し洛陽に入り魏孝武帝が西遷すると、慶は近しい者に「髙歡は跋扈しており簒奪を企てている、その支配下に安住してはいられない」と語り、大統三年、宜陽から京師に帰参した。太祖は「高歓の乱世にあって人々が私利に走る中、卿は忠貞の節を尽くし逆を捨てて順に帰した」と称えた。
  • 中堅将軍奉車都尉を拝し、河橋の役の功で前将軍太中大夫に進み、後将軍・安次縣子・食邑四百戸に封じられ、邙山の戦では先陣を切って敵陣を陥れ撫軍将軍大都督を拝し伯に進み食邑五百戸を増した。士卒への配慮に厚く、休む前に必ず休ませたため兵は死力を尽くした。使持節車騎大将軍儀同三司散騎常侍驃騎大将軍開府儀同三司雲州大中正侍中を歴任し、大野氏の姓を賜った。
  • 孝閔帝の即位で河州刺史として出向し石保縣公・食邑千戸に進んだ。異民族と接する地であったが慶は撫育に努め治績を称えられ、大将軍・大安郡公(食邑同)に進み、入朝して小司空、雲州刺史を経て寧州刺史に転じた。寛容な統治で民に慕われた。天和六年、柱國に進んだ。晉公護の母は慶の叔母にあたり、護が権勢を握っても慶は決して阿ることがなかった。護の誅殺後、髙祖はこの点を評価し、慶の第十二子毗に帝の娘の清都公主を娶らせるよう詔した。地位と姻戚関係が重くなっても慶は常に謙虚さを守り、世の人々に称えられた。
  • 建徳二年、上表して致仕を願い、詔を得て許された。慶は老いて久しく病に苦しんでいたが、宣帝は先朝の耆宿として特に重んじ靜帝を遣わして病を見舞わせ、布帛千段と医薬を給した。大象二年、上柱國を拝し、隋文帝の即位後も皇太子を遣わして見舞わせ医薬の費用を給した。開皇二年、七十七歳で薨じ、司空・荆譙浙湖澧廣蒙七州諸軍事荆州刺史を贈られ諡は成。長子の常は慶より先に没しており、次子の毗が跡を継ぎ、大象末に大将軍に至った。

史論

  • 史臣曰く、漢の中陽(薄太后の一族)が朝政を握って沛邑に多くの侯を封じ、白水(光武帝の一族)が天に応じて興り、南陽の一族もみな貴戚となったように、近親の縁により寵栄を得るのは古来のならいである。王盟らも初めは外戚として朝廷に列したが、最終的には才能によって功業に列することができた。これはひとえに恩沢によるものではない。