出自と生涯
- 叱列伏龜、字は摩頭陁。代郡西部の人で、代々部落大人であった家系。魏の初め帰順し、代々第一領民酋長を世襲した。龜は容貌堂々として腰帯十囲、立ち居振る舞いも雅やかで武芸にも通じ、父の跡を継いで領民酋長となった。
- 魏正光五年、廣陽王深の北征に際し寧朔将軍として帳内の兵事を委ねられ、まもなく善無郡守となった。孝昌三年、別将として長孫稚の西征に従軍し戦功により征西将軍金紫光祿大夫に累進した。のち洛陽に戻り都督を拝したが、齊神武(髙歡)に重用され大都督に任じられた。沙苑の敗戦の際、他の将らと同様に降ったが、太祖はその名門であることを重んじて丁重に礼遇し、邵惠公の娘を娶らせた。大統四年、長樂縣公・食邑千戸に封じられ、以後太祖の征討に常に従い戦功を重ねた。
- 八年、北雍州刺史として出向し大都督を加えられ、まもなく車騎大将軍儀同三司散騎常侍に進んだ。十四年、侍中を拝し驃騎大将軍開府儀同三司を加えられ恒州刺史となり、食邑あわせて千四百戸に増した。十七年に卒した。子の椿が跡を継ぎ、字は千年。世宗の時代に車騎大将軍儀同三司を拝し、まもなく驃騎大将軍開府儀同三司に遷り永世縣公・食邑千二百戸に改封された。保定二年、幽州刺史を授かり、天和の初め左宮伯を経て大将軍に進んだ。