周書卷二十 列傳第十二 賀蘭祥
賀蘭祥は字を盛樂といい、太祖の甥(父初真は太祖の姉婿)。武川の出。太祖に特に愛され侯莫陳悦平定・魏孝武帝迎立に功を挙げ、荆州・同州刺史などを歴任、吐谷渾討伐で凉國公に進んだ。清廉な治績で知られ48歳で没した。
出自と生涯
- 賀蘭祥、字は盛樂。先祖は魏と共に興った家系で、紇伏という者が賀蘭莫何弗であったことから氏とした。のち良家の子として武川に鎮したことで居を構えた。父の初真は名を知られ、太祖の姉の建安長公主を娶った。保定二年、太傅柱國常山郡公を追贈された。
- 祥は十一歳で父を失い喪に服し礼にかない、母方の家で育てられ太祖に特に愛された。軍旅にあっても常に儒者を招き経書を学ばせた。太祖が初めて関中に入った際、祥は晉公護とともに晉陽におり、のち使者を遣わして迎えた(詳細は護傳)。十七歳で仕官し威烈将軍を加えられた。
- 胆気と功名心があり、都督に抜擢され常に帳下にあり、侯莫陳悦の平定、魏孝武帝の迎立に功を挙げ、撫夷縣伯・食邑五百戸に封ぜられた。潼関攻撃で東魏の将薛長孺を捕らえ、回洛城を攻略し、左右直長に転じ公に進み食邑あわせて千三百戸となった。
- 大統三年、儀同の于謹に従い楊氏壁を攻め先登の功で右衛将軍・持節征虜将軍を加えられた。沙苑の役では京師の守備を命じられ、留守の功で食邑八百戸を増した。のち鎮西将軍。四年、魏文帝の東伐に従軍し河橋の戦功で使持節大都督を加えられ、八年に車騎大将軍儀同三司散騎常侍、九年には太祖に従い邙山で東魏と戦い驃騎大将軍開府儀同三司侍中に進んだ。
- 十四年、三荆・南襄・南雍・平信・江随・二郢・浙十二州諸軍事荆州刺史に任じ、博陵郡公に進んだ。以前に荆州の政務を代行した際も治績があり、再任すると民は安んじ、漢南の流民が続々と集まった。夏の日照りの際、古墳を暴いて骸骨を晒す悪習を見て「これが仁政と言えるか」と守令に命じて埋葬させると即日雨が降り、その年は豊作となり盗掘の風習も止んだ。太祖の縁戚でありながら清廉で、梁の岳陽王蕭察から贈られた品も一度は所司に預け、後に太祖が知って改めて祥に下賜した。
- 十六年、大将軍を拝し召還された。太祖は涇渭の灌漑用堰が荒廃していたため祥に命じて富平堰を修造させ、洛水へ水を引く工事を完成させ民に利益をもたらした。魏廢帝二年、華州の政務を代行、のち華州を同州と改称すると祥がその刺史となり、尚書左僕射を拝し、六官制の建置で小司馬を授けられた。孝閔帝の即位で柱國に進み大司馬に遷った。当時晋公護が執政しており、祥と護は親戚として親しく、軍国の事を護は祥と相談し、趙貴誅殺・孝閔帝廃立にも祥は力を尽くした。
- 武成の初め、吐谷渾が涼州を侵すと、祥は宇文貴とともに討伐を命じられ、軍司に檄文を発して吐谷渾を諭した(先祖の武功・吐谷渾の背信・投降の勧告を要旨とする長文)。祥は吐谷渾の廣定王・鍾留王らを撃破し、洮陽・洪和の二城を抜いて洮州を置き、西方を平定して凉國公・食邑万戸に進んだ。
- 保定四年(564年)、四十八歳で薨じ、使持節太師同岐等十二州諸軍事同州刺史を贈られ、諡は景。七子(敬・讓・璨・師・寛ら)があり、敬は化隆縣侯を経て凉國公を襲封、柱國大将軍華州刺史に至った。讓は大将軍鄜州刺史河東郡公、璨は開府儀同三司宜陽縣公。隋文帝は祥と旧交があり、開皇の初め上柱國を追贈した。