周書卷十九 列傳第十一 王雄
王雄(字胡布頭)は太原の人。賀抜岳に従い入関し、魏孝武帝の西遷後は太祖に仕え各地の刺史・大将軍を歴任した。柱国大将軍・庸国公に至ったが、東征中に北斉の斛律明月との一騎討ちで額を射られ、陣中で薨去した。
出自と斛律明月との一騎討ち
- 王雄は字を胡布頭といい、太原の人。父の崙は雄の勲功により柱国大将軍・少傅・安康郡公を追贈された。雄は容貌魁梧で若くして謀略があった。永安末、賀抜岳に従い入関し征西将軍・金紫光禄大夫を除された。魏孝武帝の西遷に伴い都督を授かり臨貞県伯(食邑500戸)に封じられた。
- 大統初年、公に進爵し食邑200戸を加増、武衛将軍を拝命し驃騎将軍を加えられ食邑800戸を加増、大都督に進み、まもなく儀同三司を拝命し食邑300戸を加増、開府儀同三司に遷り侍中を加えられ、岐州刺史として出鎮し武威郡公に進爵、大将軍に進位し同州事を代行した。
- 17年(551年)雄は軍を率いて子午谷から出て梁の上津・魏興を包囲し、翌年これを克してその地を東梁州とした。まもなく再び叛いたため雄に再びこれを討たせた。魏恭帝元年(554年)可頻氏を賜姓された。孝閔帝践阼の際、少傅を授かり食邑2000戸を加増、柱国大将軍に進位。武成初年、庸国公(食邑1万戸)に進封され、まもなく涇州総管諸軍事・涇州刺史として出鎮。
- 保定4年(564年)晋公護の東征に従った際、雄は道中で病を得たが自ら奮って進み、邙山に至り斉の将の斛律明月と交戦した。雄は馬を馳せてこれに突入し3人を殺すと明月は退走し、雄がこれを追うと明月の左右の従者は皆散り矢も尽き、残るは1人の奴僕と1本の矢のみであった。雄は矛を構え明月まで1丈余りに迫り「お前を惜しんで殺さぬ、ただ生け捕りにして天子にお目にかけよう」と語ったが、明月は雄の額を射て、雄は馬を抱えて退き、営に至って薨去した。享年58。使持節・太保・同州華州等二十州諸軍事・同州刺史を追贈され諡は忠。子の謙が跡を継いだ(別に伝がある)。
史論
- 史臣曰く、太祖は喪乱の際に身を起こし戦争の余に乗じ平涼から興り関右を撫征した。当時、外患は激しく内難もまさに盛んで、檄文は行き交い戦車はしばしば動かされたが、最終的にはよく逃亡の孽を掃討し鴻基を固めることができた。これは廟謨(朝廷の謀)に基づくものであったが、実際にその成果を挙げたのは将帥の力による。達奚武らは皆勇と略とを兼ね備え、風雲に遭遇するや、あるいは中軍で功を効し、あるいは方面で功を立て、休戚をともに分かち艱難をともに済った。まさに国の爪牙、朝廷を外辱から守る者たちであったと言える。達奚武が太祖の謀を助け功を得たのは、周瑜の赤壁の謀や賈詡の烏巣の策にわずかに及ばないまでも、一言をもって国を興したと言うにふさわしいほどこれに近いものであった。