周書卷十九 列傳第十一 侯莫陳順

侯莫陳崇の兄

  • 侯莫陳順は太保・梁国公の崇の兄である。若くして豪侠で志度があり、初め爾朱栄に仕え統軍となり、のち賀抜勝に従い井陘に鎮した。武泰初年、葛栄討伐・邢杲平定・韓婁征討にいずれも功があり軽車将軍・羽林監を拝命。さらに元顥討伐に従い寧朔将軍・越騎校尉に進んだ。普泰元年(531年)持節・征西将軍を除され木門県子(食邑300戸)に封じられ、まもなく散騎常侍・千牛備身衛将軍・閤内大都督を加えられた。
  • 魏孝武帝の入関に従った。順と太祖は同郷で以前から親しく、また弟の崇が先に関中にいたため、太祖は順に会って大いに喜び彭城郡公(食邑1000戸)に進爵させた。大統元年(535年)衛尉卿を拝命し儀同三司を授かった。梁企定が河州を包囲した際、順は大都督として趙貴とともにこれを討ち破り、そのまま河州事を代行した。太祖に従い沙苑を破った功により食邑1000戸を加増された。
  • 4年(538年)魏文帝の東討に際し太尉の王盟・僕射の周恵達らとともに留まって長安に鎮した。趙青雀が反乱を起こした際、王盟と恵達は魏太子を奉じて渭北に退いたが、順は渭橋で賊と戦いたびたびこれを破り、賊は出てこられなくなった。魏文帝が還ると自ら順の手を執って「渭橋の戦いは卿の格別な功だ」と述べ、着けていた金鏤玉梁帯を解いて賜った。
  • 南岐州の氐の苻安寿が自ら太白王を号し武都を攻め破って州郡が騒乱すると、再び順を大都督としてこれを討たせた。賊は険要に兵を屯し軍は進めなかったが、順は反間の計を設けてその腹心を離間させ、信賞を明らかにしてその部下を誘った。安寿は勢いが窮まったことを悟り、部落1000家を率いて軍に帰順した。このとき弟の崇も彭城郡公に封じられていたため、順は河間郡公に改封された。翌年、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ西夏州事を代行し安平郡公となった。16年(550年)大将軍を拝命し[原文欠字]州総管・山南道五十二州諸軍事・[原文欠字]州刺史として出鎮。孝閔帝践阼の際、少師を拝命し柱国に進位、その年に薨去した。