出自と各地での善政
- 王羆は字を熊羆といい、京兆霸城の人。漢の河南尹の王遵の子孫で代々州郡の名家であった。羆は剛直で朴訥、物事の処し方は公平で州郡の人々に敬われ憚られた。魏太和中に殿中将軍を除された。
- それ以前、南岐・東益の氐羌が反乱を起こし王師の戦いは不利であったため、羆に羽林5000を率いさせ梁州に鎮して諸賊を討平させた。還ると右将軍・西河内史を授かったが辞して拝命しなかった。人々が「西河は大邦で俸禄も厚いのになぜ辞退するのか」と問うと、羆は「京洛の材木はすべて西河から出るため、朝貴で邸宅を営む者は皆求めて借りようとする。私財で賄えば力が及ばず、民間から徴発すれば法に背く。それゆえ辞退したのだ」と答えた。
- 梁の将の曹義宗が荊州を包囲した際、勅により羆は別将の裴衍とともに救援に赴き梁人と戦いこれを大破した。当時は諸方が沸き立ち各地が疲弊しており、荊州も新たに寇難を経て慰撫が必要であったため、羆は荊州刺史となり撫軍将軍を加えられた。
- 梁は再び曹義宗に数万の衆を率いさせ荊州を包囲し水をせき止めて城を水攻めにし、水没を免れたのは数板の高さのみであった。当時、内外に多くの憂患があり救援が及ばなかったため、羆に鉄券を遺わし「城を守り抜けば本州の刺史を授ける」と告げた。城中の食糧が尽きると羆は粥を煮て将士と均等に分けて食べ、出陣のたびに甲冑を着けず「荊州城は孝文皇帝が置かれた城だ。天が国家を助けないなら賊の矢を私に当てよ、さもなくば私が必ず賊を破ってみせる」と大声で叫んだが、幾度戦っても傷を負わなかった。3年に及んでようやく義宗は退き、羆は霸城県公に進封された。
- まもなく車騎大将軍・涇州刺史に遷ったが赴任前に太祖の勤王の挙に召され前駆となることを願い出て大都督として華州に鎮した。魏孝武帝の西遷に際し驃騎大将軍・侍中・開府を拝命した。
- かつて州城を修理していた最中、梯子が外に置かれたままの状態で、斉神武が韓軌・司馬子如に河東から夜間に渡らせ羆を襲わせた。羆はこれに気づかず、夜が明ける頃には韓軌の衆が既に梯を伝って城内に入っていた。羆はまだ寝床にあったが、閤外の騒ぎを聞くと、上半身裸で髷を露わにし裸足のまま一本の白い棒を持って大声を上げて飛び出した。敵はこれに驚いて逃げ、東門まで追いつめると左右の兵が集まり合戦してこれを破り、韓軌の衆は城を投げ捨てて逃走した。
- 関中が大飢饉に見舞われた際、民間から穀物を徴税して軍費に充てたが、隠匿する者を互いに告発させると多くの者が鞭打たれた。しかし羆は人々に信頼されており隠す者がなく、諸州の中で最も多くの粟を集めながら怨みの声が上がらなかった。
- 沙苑の役で斉神武の兵馬が盛んであったため、太祖は華州が要衝であるとして使者を遣わし羆に守備を固めるよう伝えた。羆は使者に「老いた熊が道を塞いで寝ているのに、狢の子がどうして通れよう」と語った。太祖はこれを聞いて壮とした。斉神武が城下に至り「なぜ早く降らないのか」と羆に言うと、羆は大声で「この城は王羆の墓だ、生死はここで決まる、死にたい者は来い」と叫び、斉神武はついに攻めることができなかった。
- 茹茹(柔然)が河を渡り南寇し斥候の騎兵が既に豳州に至った際、朝廷は深く侵入されることを憂え士馬を徴発して京城を守り街巷に塹を掘って備えた。左僕射の周恵達が羆を呼んで議したが羆は応じず、使者に「もし茹茹が渭水の北に至れば、私は郷里の兵を率いて自ら破ってみせる。国家の兵馬を煩わせるまでもない。天子のおられる城中でこのような騒動を起こしたのは周家の小僧(周恵達)の臆病さゆえだ」と語った。羆が権勢を軽んじ正義を守って曲げなかったのはこのような性格によるものであった。
- まもなく河東の鎮に還った。羆は性が質素で身なりに構わなかった。あるとき台使が羆のために食事を用意されると、使者が薄餅の縁を破り捨てたのを見て、羆は「耕種収穫の功はすでに深く、舂き炊いて作り上げるにも力を惜しまなかったのに、そのように選り好みするとは、まだ飢えたことがないのだろう」と言い、左右に命じてその食事を下げさせた。使者は驚き大いに恥じた。また客が瓜を食べる際に皮を厚く剥いたことに羆が不快を示し、皮が地に落ちるとそれを拾って自ら食べたため、客は大いに恥じ入った。性はまた厳格で急であり、あるとき私情を挟んで訴えに来た小吏を、命令する間もなく自ら靴を脱いでそれで打ち据えた。宴会のたびに自ら酒肉を秤量して将士に分け与え、当時の人々はその公平さを尊びつつも、その細かさをあざ笑った。
- 大統7年(541年)鎮所で卒去。太尉を追贈された。
王慶遠・王述――王羆の子と孫
- 子の慶遠は弱冠にして功臣の子として直閤将軍を拝命したが、羆より先に卒去し孫の述が跡を継いだ。
- 述は字を長述といい、若くして聡敏で識度があった。8歳のとき太祖に会い「王公にこの孫がいるなら不朽と言うにふさわしい」と奇とされ、鎮遠将軍・太子舎人を拝命した。祖父の喪により職を去った。述は幼くして父を喪い羆に養育されていたため、喪に服す際も深く礼にかなった。当時、東西が交戦していたため、喪に服す官員は卒哭の後は皆務めに戻るよう命じられていたが、述は礼制を全うすることを懇切に願い出た。太祖は中使に様子を見させ、その哀毀の様を知って特にこれを許した。喪が明けると扶風郡公の爵を襲い、上大将軍に累進した。