周書卷十七 列傳第九 若干惠

若干惠(字惠保)は代郡武川の人。父の樹利周は葛栄討伐で戦死した。爾朱栄・賀抜岳に従い各地を転戦して功を重ね、岳の死後は寇洛・趙貴らと太祖(宇文泰)を擁立した。邙山の戦いでは右軍を率いて奮戦し、太祖に深く重んじられた。侯景の襄州侵攻を撃退した後、軍中で病を得て薨去した。年少ながら孝行で知られた人物。

年表(5件)
  • 翌年侯景の内附に伴い魯陽に鎮したが軍中で病を得て薨去する
  • 4年538年斉神武と河橋で戦いこれを破り多くの降卒を得る
  • 7年541年中領軍に遷る
  • 7年541年邙山の戦いで右軍を率い斉神武の軍を破るが友軍が崩れ退く
  • 12年546年東魏の侯景の襄州侵攻を撃退する

出自と各地の征戦

  • 若干惠は字を恵保といい、代郡武川の人。その先祖は魏氏とともに興り、国号を姓とした。父の樹利周は魏の広陽王深に従い葛栄を征して戦死し冀州刺史を追贈された。
  • 惠は弱冠で爾朱栄の征伐に従い河北を平定し元顥を破って中堅将軍を拝命。さらに別将として賀抜岳の西征に従い岐州の包囲を解き万俟醜奴を捕らえ、永洛を平定し隴右を定めるなど各戦で功を挙げ北平県男(食邑200戸)に封じられ、鎮遠将軍・都督・直寝・征西将軍・金紫光禄大夫に累進した。
  • 岳が侯莫陳悦に殺害されると、惠は寇洛・趙貴らと同謀して太祖を擁立し悦の平定に従い直閤将軍を拝命。魏孝武帝の西遷に際し右衛将軍・大都督を除され魏昌県伯(食邑500戸)に進爵、北華州刺史として出鎮し使持節・驃騎将軍を加えられた。大統初年、儀同三司を拝命し公に進爵し食邑500戸を加増、竇泰捕縛・弘農回復・沙苑の戦いに従い常に先登陥陣し侍中・開府を加え長楽郡公に進爵し食邑通算2200戸とされた。
  • 4年(538年)魏文帝の東巡洛陽に際し斉神武と河橋で戦い、惠は力戦してこれを破り多くの降卒を得た。7年(541年)中領軍に遷る。高仲密が北予州をもって帰順した際、太祖は師を率いてこれを迎え軍は洛陽に至り、斉神武は邙山でこれを要撃しようとした。太祖は輜重を瀍曲に移し夜に兵を勒してこれを襲い、戦いでは惠が右軍を率い中軍とともに大破し数里を追撃して歩卒を虜にしたが、斉神武の兵は左軍に集中し軍将の趙貴らは戦況不利で諸軍もこれにより退いた。
  • 日暮れとなり斉神武の兵がしばしば惠を攻めたが惠はこれを撃退した。夜半、斉神武の騎兵が再び来襲すると惠は落ち着いて下馬し料理人に食事の支度を命じ、食事を終えると左右に「長安で死ぬのとここで死ぬのと何が違うか」と語り、旗を立て角笛を鳴らして敗軍を収めて還った。斉神武の追騎は惠を憚り伏兵を疑って迫らなかった。弘農に至り太祖に賊の形勢を陳べたが、あと一歩で成らなかった功を悔い嗚咽が止まらなかった。太祖はこれを壮とし秦州刺史を拝命したが赴任前に司空に遷った。
  • 惠は性剛質で勇力があり容貌魁岸、将士の撫御に長け皆恩義を懐き節に効うことを願った。12年(546年)東魏の将の侯景が襄州に侵攻すると惠は兵を率いてこれを撃退した。翌年、景が内附を請うと朝議は河南を収拾しようとし、惠に本官のまま魯陽に鎮し声援とさせたが、軍中で病を得て薨去した。
  • 惠は諸将の中で最も年少であったが早くに父を喪い、母に事えて孝を称された。太祖がかつて新築の射堂で諸将と宴射した際、惠がひそかに「親は老いているのにいつになったらこのようなことができようか」と嘆いたのを太祖が聞き、その日のうちに射堂を惠の家に移させた。惠が重んじられたことはこれほどであった。薨去に際し太祖は長く涙を流し、惠の柩が至ると再び臨んで撫でた。本官に秦州刺史を追贈し諡は武烈。子の鳳が跡を継いだ。
  • 鳳は字を達摩といい、若くして沈深で識度があった。大統末に父の爵の長楽郡公を襲い太祖の娘を娶った。魏廃帝2年(553年)驃騎大将軍・開府儀同三司を授かり、魏恭帝3年(556年)左宮伯を除され、まもなく洛州刺史として出鎮、召されて大馭中大夫を拝命。保定4年(564年)佐命の功が追録され徐国公に封じられ食邑併せて5000戸とされ、建徳2年(573年)柱国を拝命した。