出自と太祖擁立
- 梁禦は字を善通といい、その先祖は安定の人であったが、のち北辺に赴任し武川に一家を構え紇豆陵氏を名乗った。高祖の俟力提は魏太祖の征討に従い揚武将軍・定陽侯に至った。
- 禦は若くして学を好み挙措は詳雅であったが、成長すると弓馬をより好んだ。爾朱天光の西討に際し禦の志略を知られ左右に引かれ、宣威将軍・都将を授かり関右平定に加わり、鎮西将軍・東益州刺史・第一領民酋長を除され白水県伯(食邑300戸)に封じられた。征西将軍・金紫光禄大夫に転じ、のち賀抜岳に従い長安に鎮した。
- 岳が殺害されると禦は諸将と同謀して太祖を擁立し、侯莫陳悦討伐に従い武衛将軍に遷った。太祖が秦隴を平定し兵を東下させようとした際、雍州刺史の賈顕が両端を持し斉神武と密使を通じていた。太祖はこれを微かに察知し、禦を大都督・雍州刺史・前軍を領して先行させた。禦は顕に会うと「魏室は衰え天下は沸き立ち、高歓は凶逆を志しその滅びは遠くない。宇文夏州(太祖)は英姿世に稀で謀略も比類なく、まさに危を扶け傾きを定め京洛を匡復しようとしている。公がこの時に功を立てず猶予すれば禍は必ずすぐに至るだろう」と説き、顕は太祖を出迎えた。
- 禦はそのまま雍州に入鎮し車騎大将軍・儀同三司を授かった。大統元年(535年)右衛将軍に転じ信都県公(食邑1000戸)に進爵、まもなく尚書右僕射を授かり、太祖に従い弘農回復・沙苑の戦いに従軍し侍中・開府儀同三司を加えられ広平郡公に進爵し食邑1500戸を加増された。東雍州刺史として出鎮し、政は大綱を挙げるのみで民庶に慕われた。
- 4年(538年)州で薨去。臨終の際にはただ国運の未だ康からぬことを恨みとし、家事には言及しなかった。太尉・尚書令・雍州刺史を追贈され諡は武。子の睿が爵を襲った。天和中に開府儀同三司を拝命、佐命の功により蔣国公に進爵、大象末に益州総管を除し柱国を加えられた。睿が任地に赴こうとした際、王謙が挙兵して交代を拒んだため、睿は行軍元帥に任じられこれを討ち破って上柱国に進位した。