周書卷十六 列傳第八 侯莫陳崇
侯莫陳崇、字は尚楽(?–563年)。代郡武川の出身。若くして万俟醜奴を生け捕りにする武功をあげ、太祖帰順後も各地の反乱平定に尽力し柱国大将軍・梁国公に至った。宇文護に関する軽率な発言が発覚し、自殺を強いられた。
出自と武功
- 侯莫陳崇は字を尚楽といい、代郡武川の人。その先祖は魏の別部で庫斛真水に居し、5世祖の太骨都侯以降代々渠帥であった。祖父の允は良家子として武川鎮に移り一家を構え、父の興は殿中将軍・羽林監であった。
- 崇は若くして驍勇で騎射に長じ、謹慎で寡黙であった。15歳で賀抜岳に従い爾朱栄の葛栄討伐に従軍し、さらに元天穆に従い邢杲を討ち平定して建威将軍を除された。別に岳に従い元顥を洛陽で破り直寝に遷った。のち岳に従い関中に入り赤水蜀を破った。万俟醜奴が岐州を包囲した際、将の李尉遅菩薩に兵を率いさせ武功に向かわせたが、崇は岳に従い力戦してこれを破り勝ちに乗じ追撃して岐州の包囲を解いた。さらに百里細川に赴き賊帥の侯伏侯元進の柵を破り、醜奴は残余を率いて高平に奔ったが、崇は軽騎で追撃し涇州長坑でこれに追いつき、賊がまだ隊列を整えないうちに崇は単騎で賊中に入り馬上で醜奴を生け捕りにした。これに大呼すると衆はことごとく崩れ、誰も立ち向かえなかった。援軍が続々集まると賊徒はすべて逃散し大破された。岳は醜奴の乗馬・宝剣・金帯を崇に賞し、安北将軍・大中大夫・都督を除し臨涇県侯(食邑800戸)に封じた。
- 岳が侯莫陳悦に殺害されると、崇は諸将とともに太祖を迎える謀に加わった。太祖が軍原に至ったとき、原州刺史の史帰はなお悦のために守っていたため、太祖は崇に帰を襲わせた。崇は密かに軍を夜間に進め、軽兵7騎で直接城下に至り、残る兵はすべて近くの路に伏せた。帰は騎兵が少ないのを見て備えを設けなかったため、崇はそのまま城門に入り占拠した。このとき李遠兄弟が城内におり崇の来襲を先に知っていたため、内外呼応して鼓噪し伏兵が悉く起こって帰を捕らえこれを斬った。崇は原州事を代行し、悦の平定にも従い征西将軍に転じた。さらに崇を遣わして秦州を慰撫し、別に広武県伯(食邑700戸)に封じた。
- 大統元年(535年)涇州刺史を除され散騎常侍・大都督を加えられ公に進爵、車騎大将軍・儀同三司、驃騎大将軍・開府儀同三司に累進し彭城郡公(食邑3000戸)に改封された。3年(537年)竇泰の捕縛・弘農回復・沙苑の戦いに従い食邑2000戸を加増、4年(538年)河橋の戦いに従い崇の功が最も多かった。7年(541年)稽胡が反すると崇は衆を率いてこれを討平し、まもなく雍州刺史を除され太子詹事を兼ねた。
- 15年(549年)柱国大将軍に進位し少傅に転じた。魏恭帝元年(554年)寧州刺史として出鎮、尚書令に遷り、六官制が建てられると大司空を拝命。孝閔帝践阼の際、梁国公(食邑1万戸)に進封し太保を加え、大宗伯・大司徒を歴任した。
- 保定2年(562年)崇は高祖の原州行幸に従ったが、高祖が夜に密かに京師に還ったことを不審に思った崇は、親しい常昇に「私は昔、卜筮者が『晋公(宇文護)は今年不利』と言ったのを聞いたことがある。今、車駕が突然夜に帰ったのは晋公が死んだからではないか」と語った。これが衆に伝わり事が発覚すると、高祖は大徳殿で公卿を集めて崇を責め、崇は惶恐して謝罪したが、その夜、護は使者を遣わして崇の邸で自殺を強いた。葬儀は通常の礼で行われ諡は躁とされたが、護誅殺後に荘閔と改諡された。
- 子の芮が跡を継ぎ大将軍を拝命し柱国に進位、高祖の東伐に従い太行道を守り并州平定の後に上柱国を授かり、さらに鄴の平定に従い大司馬を拝命した。
- 崇の弟の瓊は字を世楽といい、8歳で父を喪い母を養い孝行に篤く、兄たちにもよく仕え内外に敬われた。軍功により霊丘県男(食邑300戸)に封じられ、魏孝武帝の入関に従い太祖の直盪都督となった。大統3年(537年)尚薬典御に遷り、太子右衛率を拝命して侯に進爵、独孤信に従い梁企定を征し北秦州刺史に累進した。14年(548年)車騎大将軍・儀同三司を拝命。孝閔帝践阼の際、武安県公に進爵し食邑併せて2000戸とされ、郢州刺史として出鎮。武成2年(560年)金州総管六州諸軍事・金州刺史に遷り、保定元年(561年)大将軍を拝命、天和4年(569年)荊州総管十四州八防諸軍事・荊州刺史に転じ、まもなく柱国に進位し同昌郡公に進爵。建徳2年(573年)大宗伯を拝命し秦州総管として出鎮、4年(575年)高祖の東伐に従い後二軍総管となり武威郡公に改封、大象2年(580年)上柱国を加えられた。
- 瓊の弟の凱は字を敬楽といい、性は剛正で経史を好んだ。兄の崇に従い軍功により下蔡県男に叙爵。大統元年(535年)東宮侍書となり、太祖に従い竇泰を捕らえ沙苑の戦いに従い功により寧遠将軍を拝命、羽林監・東宮洗馬・太子庶子に累進し都督を授かった。14年(548年)兄の崇が原州平定の功で霊武県侯を賜られた際、詔によりこれを凱に転授することを許された。東宮武衛率・尚書右丞に累進し左丞に転じ車騎大将軍・儀同三司に進位した。六官制が建てられると司門下大夫を授かり、孝閔帝践阼の際、工部中大夫を拝命、開府儀同三司に進位し司憲中大夫に転じ公に進爵、再び工部中大夫を除された。世宗初年、宜州刺史として出鎮、武成2年(560年)入って礼部中大夫、保定中に陵州刺史、丹州刺史に転じいずれも治績があった。天和中に入って司会中大夫となり、建徳2年(573年)聘斉の使主となった。
史論
- 史臣曰く、蕭何は文吏として自愛し秦法による誅戮を恐れて漢高祖を推戴し、李通は讖術の家伝により劉氏の興隆を知り光武を翊戴して漢室の再興に導いた。中興を纂ぐ堯の策を美談とし功臣はその徽烈を仰いだ。趙貴は忠義を志し真っ先に大謀を唱えて聖明を啓き、讐恥を克復して関中の全険を保ち周室の三分の業を定めた。彼と此とは同時であり並び称すべきである。独孤信は威を南服に申べ徳を西州に洽し、信望は遐方に著れ光は隣国を照らした。侯莫陳崇は勇悍の気をもって戦争の利にあたり、軽騎で高平の扉を啓き匹馬で長坑の捷を得た。いずれも宏材遠略により鳳に附し龍に攀じ功績著しく元勲の位にあり位は上袞に至ったが、識は明哲に慙じて皆凶終を迎えた。惜しむべきである。信はその身を免れなかったが慶びは後に延び三代の外戚となったことは何と盛んなことか。
八柱国・十二大将軍
- かつて魏孝荘帝は爾朱栄の翊戴の功を賞し柱国大将軍に任じ丞相の上位に置いたが、栄の敗死後この官は廃された。大統3年(537年)魏文帝は太祖の中興の業を建てるにあたり再びこの官を置き、以後功が佐命に参与し望実ともに重い者がこの職に就いた。大統16年(550年)以前に任じられた者は8人あった。太祖は百揆を総べ中外の軍を督したため、魏の広陵王欣は元氏の懿戚として禁闈に従容とするのみであった。この他の6人はそれぞれ2人の大将軍を督し禁旅を分掌し爪牙禦侮の任にあたり、当時の栄盛はこれに並ぶものがなかった。そのため今、門閥を称する者は皆この8柱国家を推す。今、12大将軍と併せて左に記録する。
- 使持節・太尉・柱国大将軍・大都督・尚書左僕射・隴右行台・少師・隴西郡開国公の李虎。
- 使持節・太傅・柱国大将軍・大宗伯・大司徒の広陵王元欣。
- 使持節・太保・柱国大将軍・大都督・大宗伯・趙郡開国公の李弼。
- 使持節・柱国大将軍・大都督・大司馬・河内郡開国公の独孤信。
- 使持節・柱国大将軍・大都督・大司寇・南陽郡開国公の趙貴。
- 使持節・柱国大将軍・大都督・大司空・常山郡開国公の于謹。
- 使持節・柱国大将軍・大都督・少傅・彭城郡開国公の侯莫陳崇。
- 右、太祖とともに八柱国とする(のちいずれも改封された。以上は太祖時の爵位)。
- 使持節・大将軍・大都督・少保の広平王元賛。
- 使持節・大将軍・大都督の淮王元育。
- 使持節・大将軍・大都督の斉王元廓。
- 使持節・大将軍・大都督・秦七州諸軍事・秦州刺史・章武郡開国公の宇文導。
- 使持節・大将軍・大都督・平原郡開国公の侯莫陳順。
- 使持節・大将軍・大都督・雍七州諸軍事・雍州刺史・高陽郡開国公の達奚武。
- 使持節・大将軍・大都督・陽平公の李遠。
- 使持節・大将軍・大都督・范陽郡開国公の豆盧寧。
- 使持節・大将軍・大都督・化政郡開国公の宇文貴。
- 使持節・大将軍・大都督・荊州諸軍事・荊州刺史・博陵郡開国公の賀蘭祥。
- 使持節・大将軍・大都督・陳留郡開国公の楊忠。
- 使持節・大将軍・大都督・岐州諸軍事・岐州刺史・武威郡開国公の王雄。
- 右、12大将軍。それぞれさらに2人の開府を統べ、各開府が1軍を領し、これを24軍とする。大統16年以前、12大将軍のほかに念賢および王思政も大将軍となったが、賢は隴右を治め思政は河南に出鎮し、いずれも領兵の限りにはなかった。この後、功臣で柱国および大将軍の位に至った者は多いが、いずれも散秩で統御するところがなかった。六柱国・十二大将軍の後、位次によりその事を嗣掌した者もあるが、徳望が諸公の下にあるためこの列には預からない。