周書卷十六 列傳第八 獨孤信
独孤信、本名如願(?–557年)。雲中の出身。容儀秀麗で騎射に秀で、太祖の幼馴染として信任され、荊州・秦州で治績をあげ八柱国の一人となった。趙貴の護暗殺計画に連座を疑われ自尽を強いられた。娘たちは北周・隋の皇后となり三代の外戚となった。
出自と早年の活躍
- 独孤信は雲中の人。本名は如願。魏の初め36部があり、その先祖の伏留屯氏は部落大人で魏とともに興った。祖父の俟尼は和平年間に良家子として雲中鎮から武川鎮に移り一家を構えた。父の庫者は領民酋長となり、若くして雄豪で節義があり北州の人々に敬服された。
- 信は容儀秀麗で騎射に長じた。正光末、賀抜度らとともに衛可孤を斬りこれにより名を知られた。北辺の乱を避けて中山に至り葛栄に捕らえられたが、信は若くして自ら容姿を整え服装も人に異なっていたため軍中で「独孤郎」と称された。爾朱氏が葛栄を破ると信は別将として韓婁討伐に従い、匹馬で挑戦し賊の漁陽王袁肆周を捕らえた功により員外散騎侍郎を拝命、まもなく驍騎将軍に転じ滏口に鎮した。
- 元顥が洛陽に入ると栄は信を前駆とし顥の党と河北で戦いこれを破って安南将軍を拝命、爰徳県侯に叙爵。建明初年、荊州新野鎮将として出鎮し新野郡守を帯び、まもなく荊州防城大都督に遷り南郷守を帯び、両職とも治績が上がった。賀抜勝が荊州に鎮すると信を大都督として表し、勝に従い梁の下溠戍を攻めこれを破り武衛将軍に遷った。
- 勝の弟の岳が侯莫陳悦に殺害されると、勝は信を関中に入らせ岳の遺衆を撫させたが、太祖が既に岳の兵を統べていた。信と太祖は同郷で若い頃からの親友であり、再会を大いに喜んだ。信は太祖の命で洛陽へ赴き事を報告し、雍州大使の元毗はさらに信を荊州へ還らせたが、まもなく信は朝に召された。
- 魏孝武帝は信を厚く信任し、孝武帝の西遷の際、事は突発的で信は単騎で瀍澗に追いつき、孝武帝は「武衛はよく父母を辞し妻子を捨てて遠く私に従ってくれた。世が乱れて初めて忠良を知るというのは本当だ」と嘆じ、御馬一疋を賜い浮陽郡公(食邑1000戸)に進爵した。
- このとき荊州は既に東魏に陥落していたが民心はなお本朝を慕っていたため、信を衛大将軍・都督三荊州諸軍事兼尚書右僕射・東南道行台大都督・荊州刺史として招懐にあたらせた。信が武陶に至ると東魏は弘農郡守の田八能に蛮左の衆を率いさせ浙陽で信を拒み、さらに都督の張斉民に歩騎3000を率いさせ信の背後に出た。信は「今、我が士卒は千人に満たず前後から敵を受ける。斉民を退けて撃てば敵は我らが退走したと見て必ず要撃してくるだろう。まずは八能を破るべきだ」と部下に述べ、八能を奮撃して敗り斉民も潰走した。
- 信は勝ちに乗じ荊州を襲い、東魏の刺史の辛纂が兵を率いて出戦したが、士庶は信の遺した恩恵を懐き、信が陣に臨んで諭すと戦意を失った。信は兵を放ってこれを撃ち纂は大敗して城門へ逃げ込もうとしたが、閉じきる前に信の都督の楊忠らが先駆けて纂を斬った(詳細は楊忠伝)。これにより三荊は平定され、信は車騎大将軍・儀同三司を拝命した。
- 東魏はさらに高敖曹・侯景らを派遣し衆を率いて突然迫ったため、信は寡兵で敵しがたく麾下を率いて梁へ奔った。梁に3年間身を寄せ、梁武帝はようやく信の北帰を許した。信の父母は山東にあり、梁武帝が信の行方を問うと信は「君に仕えるに二心はない」と答え、梁武帝はこれを深く義とし手厚く見送った。
- 大統3年(537年)秋、長安に至り、国威を損なったとして上書して謝罪した。魏文帝は尚書に議させ、七兵尚書の陳郡王の王言らは「辺将が兵を統べ天罰を行いながら軍を喪い敗績すれば、国刑は免れない。荊州刺史の独孤如願は推轂の任にあたり遠く襄陽・宛城を襲い賊帥の辛纂を斬ってその首を京師に伝えた功は嘉賞に値するが、その後戦況が続かず淪没に至った責は免れない。しかし孤軍数千で後援もなく、賊衆に対し寡兵で自固しがたかった事情もある。昔、秦は孟明を、漢は李広利を赦し、ついに過ちを改めて功を立て名を竹帛に垂れた例がある。赦して旧職に復すべき」と議した。魏文帝は詔して「如願の荊襄の役は実に功績を展べたが、強敵に阻まれ道が窮まり、朝に帰る道が絶たれた末に賊に身を寄せたのはやむを得ない事情であり過ちとは言い難い。呉に赴いた難を経ながらも義を全うし終始変わらなかったことは嘉すべきだ」として驃騎大将軍・侍中・開府を加え、使持節・儀同三司・浮陽郡公はそのままとした。まもなく領軍を拝命し、太祖に従い弘農回復・沙苑の戦いに従い河内郡公に改封し食邑2000戸を加増された。
- このとき捕虜の中に信の親族がおり初めて父の訃報を得たため喪に服し、まもなく大都督として起用され馮翊王元季海とともに洛陽に入り、潁州・豫州・襄州・広州・陳留の地が相継いで帰順した。4年(538年)東魏の将の侯景らが洛陽を包囲すると、信は金墉城に拠って方々を防戦し10余日耐えた。太祖が瀍水東岸に至ると景らは退いたが、信と李遠が率いた右軍は戦況不利で東魏がついに洛陽を得た。
- 6年(540年)侯景が荊州に侵攻すると太祖は信に李弼とともに武関から出させ、景は退いた。信は大使として三荊を慰撫し、まもなく隴右十州大都督・秦州刺史を除された。それ以前、守宰が闇弱で政令が乱れ民の冤訴が長年決着しなかったが、信が州にあると事は滞りなく礼教を示し耕桑を勧めたため数年で公私ともに富み、流民の帰附を願う者は数万家に及んだ。太祖はその信望が遠近に及ぶことから信という名を賜った。
- 7年(541年)岷州刺史で赤水蕃王の梁企定が挙兵反乱を起こすと、信に討伐を命じたが企定はまもなく部下に殺され、企定の子弟がなお余衆を収めた。信は兵を万年に進め三交口に駐屯すると、賊は力を併せて拒守した。信は道を偽って稠松嶺に趨き、賊が備えぬまま信の兵の到来を望見して風のように潰走したため、勝ちに乗じて追撃し城下に至ると賊は皆降った。太子太保を加授された。邙山の戦いで大軍が不利になると、信と于謹は敗兵を収めて背後から撃ち、斉神武の追騎が驚き乱れたため諸軍はこれにより全うされた。
- 12年(546年)涼州刺史の宇文仲和が州に拠って交代を受け入れなかったため、太祖は信に開府の怡峯とともに討たせた。仲和は城に籠って固守したが、信は夜に諸将に衝梯で東北を攻めさせ、自らは壮士を率いて西南を襲い、明け方にこれを陥落させ仲和を捕らえてその民6000戸を長安に送り、大司馬を拝命した。
- 13年(547年)大軍の東討に際し茹茹が寇と見なされたため信は河陽に移鎮、14年(548年)柱国大将軍に進位。下溠の守備を破り洛陽を破り岷州を平定し涼州を平らげた功が録され、封を子らに回授することを許され、次子の善は魏寧県公、三子の穆は文侯県侯、四子の蔵は義寧県侯(各食邑1000戸)、五子の順は項城県伯、六子の陁は建忠県伯(各食邑500戸)に封じられた。信は隴右在任が久しく朝への還任を求めたが太祖は許さなかった。あるとき東魏から来た者が信の母の訃報を告げたため信は喪に服し、魏太子と世祖の北辺巡行の際に河陽に至り信を弔ったが、信は哀を陳べ喪礼を全うしたいと願い出てもなお許されなかった。信の父の庫者は司空公を追贈され、母の費連氏は常山郡君に追封された。
- 16年(550年)大軍の東討に信は隴右数万人を率いて従軍し崤坂に至って還り、尚書令に遷った。六官制が建てられると大司馬を拝命。孝閔帝践阼の際、太保・大宗伯に遷り魏国公(食邑1万戸)に進封された。趙貴誅殺後、信は同謀の疑いにより免官されて日も浅く、晋公護はさらに信を殺そうとしたが、その名望が重いため罪を顕らかにせず、家で自尽を強いた。享年55。
- 信は風度弘雅で奇謀大略があった。太祖が覇業を始めた当初、関中の地しかなかったが隴右の形勝により信を鎮させ、信は百姓に慕われ声望は隣国にも及んだ。東魏の将の侯景が梁へ南奔した際、魏収が梁への檄文で信が隴右に拠り宇文氏に従わないと偽り記し、関西の憂いがないと見せて梁人を威圧しようとしたほどだった。また信が秦州で狩りをした際、日暮れに馬を馳せて入城したところ帽子がわずかに傾いたが、翌朝吏民の帽をかぶる者は皆信を慕って帽を側らに傾けた。信が隣境や士庶に重んじられたことはこのようであった。
- 子の羅は東魏にいたため次子の善を嗣子としたが、斉の平定後に羅が至り善が没すると再び羅を嗣子とした。羅は字を羅仁といい大象元年(579年)楚安郡守を除され儀同大将軍を授かった。善は字を伏陀といい幼くして聡慧で騎射に長じ、父の勲により魏寧県公に封じられた。魏廃帝元年(552年)父の勲によりさらに驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中を加えられ長安郡公に進爵。孝閔帝践阼の際、河州刺史を除されたが父の負った罪咎により長く家に廃されていた。保定3年(563年)龍州刺史を授かり、天和6年(571年)河内郡公(食邑2000戸)の爵を襲い、高祖の東討に従い功により上開府を授かり兗州刺史を除され、政は簡素を旨とし百姓に安んじられた。在位のまま没した。享年38。使持節・柱国・定趙恒滄瀛五州諸軍事・定州刺史を追贈された。
- 信の長女は周の明敬后、四女は元貞皇后、七女は隋の文献后であり、周・隋および皇家の三代にわたり外戚となったことは古来例がない。隋文帝の即位に際し詔して「徳を褒め行を累ねることは代々の通規、遠きを追い終わりを慎むことは前王の盛典である。使持節・柱国・河内郡開国公の信は風宇高曠で人に秀で、睿哲にして宗を居し、清猷は世に映え宏謨長策は弼諧に著し、緯義経仁は拯済に深く尽くした。まさに廊廟に風を宣べ台階に才を発揮すべきところ、世は艱危に属し功高くして賞されなかった。今、景運が初めて開かれ椒闈が粛然と建てられるにあたり、塗山の義を忘れず褒紀の典を思う。太師・上柱国・冀定相滄瀛趙恒洺貝十州諸軍事・冀州刺史・趙国公(食邑1万戸)を贈り、諡を景とする」と述べた。信の父の庫者にも使持節・太尉・上柱国・定恒滄瀛平燕六州諸軍事・定州刺史・趙国公(食邑1万戸)を追贈し諡を恭とし、母の費連氏には太尉恭公夫人を追贈した。