周書卷十五 列傳第七 于謹

于謹、字は思敬(?–568年、享年76)。河南洛陽の出身。太祖に関中割拠の策を献じ、江陵陥落など軍功を重ねた。太祖没後は宇文護の執政を支持し宇文氏政権の基盤を固めた八柱国の一人で、三老の礼を受けるなど厚遇された。

年表(20件)

出自と早年の隠棲

  • 于謹は字を思敬といい、河南洛陽の人。幼名は巨弥。曽祖父の婆は魏の懐荒鎮将、祖父の安定は平涼郡守・高平郡将、父の提は隴西郡守・荏平県伯であった。保定2年(562年)謹の功勲により使持節・柱国大将軍・太保・建平郡公を追贈された。
  • 謹は性沈深で識量があり、経史をおおまかに窺い特に孫子の兵法を好んだ。郷里に隠棲して仕進の志を持たず、勧める者に「州郡の官職は昔の人も卑しんだもの。台鼎の位は時が来るのを待つべきだ。私が郡邑で悠々としているのはただ歳月を過ごすために過ぎない」と語った。太宰の元穆は謹を見て「王佐の材だ」と嘆じた。
  • 破六汗抜陵が北境で反乱を起こし茹茹を援に引き入れると、大行台僕射の元纂が衆を率いて討伐した。謹の名を聞いていた纂は鎧曹参軍事に召して従軍させた。茹茹は大軍の迫るのを聞いて塞外に逃げたため、纂は謹に2000騎を率いてこれを追わせ、郁対原で前後17戦して衆をすべて降した。
  • のち謹が軽騎で塞外を偵察していた際、鉄勒の数千騎が突然迫った。謹は寡兵で敵しがたいと判断し、部下を叢薄の間に分散潜伏させ、また人を山上に登らせ軍を分けているように見せかけた。敵は伏兵を疑いつつも大軍を恃んで進軍し謹に迫った。謹は常乗の紫馬・騧馬(敵に見知られていた)に2人の兵をそれぞれ乗せて陣を突かせ敵を誘い出し、敵が皆これを争って追う隙に残る軍を率いて撃ち、追撃の騎兵を敗走させて塞内に帰還した。
  • 正光4年(523年)行台の広陽王元深が兵を治めて北伐した際、謹は長流参軍に招かれ特に礼遇され、謀議はすべて謹が参与した。広陽王は子の仏陀に謹を拝させるほど厚遇し、ともに賊主の斛律野榖禄らを破った。
  • 魏末の乱で群盗が蜂起した際、謹は広陽王に「正光以後、天下が沸き立ち郡国は荒廃し農商が廃業しています。今、殿下が義を奉じ誅を行い関塞に臨まれても、賊の徒は実に多く、武力を極め尽くすのは上策ではありません。私が大王の威略を賜って赴き諭せば、必ず兵を労さずに清められるでしょう」と進言し、広陽王はこれに従った。
  • 謹は諸国の言葉に通じており、単騎で賊中に入り恩信を示すと、西部鉄勒の酋長の乜列河ら3万余戸が帰順し南遷した。広陽王が折敷嶺まで謹とともに出迎えようとしたが、謹は「破六汗抜陵の兵は少なくなく、乜列河らの帰順を聞けば必ず迎撃するでしょう。彼らが先に険要を占めれば争いにくくなります。乜列河らを餌とすれば敵は競って略奪に来るはずなので、伏兵を設けて待てば必ず破れます」と述べ、広陽王はその計に従った。案の定、抜陵は嶺上で乜列河を要撃しその部衆は全滅したが、謹の伏兵が発動し賊は大敗、乜列河の衆をすべて収めることができた。魏帝はこれを嘉して積射将軍を除した。
  • 孝昌元年(525年)広陽王に従い鮮于脩礼を征した際、軍が白牛邏に至ったところで章武王が脩礼に殺害され軍は中山に留まった。侍中の元晏は霊太后に「広陽王は宗室の重責を負い専征の律を受けながら盤桓して進まず、非望を企てているのではないか。また于謹という者が智略に優れその謀主となっており、風塵の隙に乗じるつもりではないか、陛下の純臣とは言いがたい」と讒言し、霊太后はこれを深く信じ、尚書省門外に謹を捕らえた者に重賞を出す旨の榜を立てさせた。
  • 謹はこれを聞き広陽王に「今、女主が朝に臨み讒佞を信任している。明白にしなければ殿下に禍が及ぶだろう。私が自ら身を縛って闕に赴き、有司に罪を帰し腹心を披露して自ら禍を免れましょう」と述べ、広陽王はこれを許した。謹は榜の下に至り「私はこの者を知っている」と言うと衆に詰問され「私がその人物だ」と答えた。有司の報告を受けた霊太后は大怒して引見したが、謹は広陽王の忠欵を弁じ軍を停めた事情を陳述し、霊太后の怒りはやや解けて謹は放免された。まもなく別将を加えられた。
  • 2年(526年)梁の将の曹義宗が穣城に拠って辺患となったため、謹は行台尚書の辛纂とともに討伐にあたり数年に及ぶ数十戦を経て、都督・宣威将軍・冗従僕射に進んだ。孝荘帝即位後、鎮遠将軍を除され直寝に転じ、さらに太宰の元天穆に従い葛栄を討ち邢杲を平定して征虜将軍を拝命、爾朱天光に従い万俟醜奴を破り石城県伯(食邑500戸)に封じられた。
  • 普泰元年(531年)征北大将軍・金紫光禄大夫・散騎常侍を除され、天光に従い宿勤明達を平定、別に夏州の賊の賀遂有伐らを討平し、大都督を授かって天光に従い斉神武と韓陵山で戦った。天光の敗北後、謹は関中に入り賀抜岳の上表により留鎮を許され、衛将軍・咸陽郡守を除された。
  • 太祖が夏州に臨んだ際、謹は防城大都督兼夏州長史となり、岳が殺害されると太祖の平涼赴任に際し「魏の帝運は衰え、権臣が命を専らにし群盗が蜂起し民は苦しんでいます。明公は超世の資質を持ち時を済う略を懐いておられ、四方遠近すべてが心を寄せています。どうか早く良図をお立てになり衆望に応えられますよう」と進言した。太祖が「どういう意味か」と問うと、謹は「関右は秦漢の旧都で古来天府と称され、将士は驍勇で土地も膏腴です。西に巴蜀の饒があり北に羊馬の利があります。今、その要害に拠り英雄を招集し士卒を養い農を勧め時変を観るべきです。天子は洛陽にあり群兇に逼られています。明公の誠意と時事の利害を陳べれば、帝は必ず喜んで西遷されるでしょう。その後、天子を挟んで諸侯に令し、王命を奉じて暴乱を討てば桓文の業も千載一時のことです」と答え、太祖は大いに喜んだ。
  • 折しも勅により謹は関内大都督に召され、都を関中に置く策を進言、魏帝はこれを納れた。まもなく斉神武が洛陽に迫ると謹は魏帝の西遷に従い、太祖に従って潼関を征し廻洛城を破って使持節・車騎大将軍・儀同三司・北雍州刺史を授かり藍田県公に進爵した。
  • 大統元年(535年)驃騎大将軍・開府儀同三司を拝命。同年夏、夏陽の人の王遊浪が楊氏壁に拠って謀反すると謹はこれを討ち捕らえた。この年、大軍の東伐に謹は前鋒となり盤豆に至って東魏の将の高叔礼が険を守り下らなかったがこれを攻め破り虜を得た。さらに弘農を拔き東魏の陝州刺史の李徴伯を捕らえた。斉神武が沙苑に至ると謹は太祖に従い諸将とともに力戦してこれを破り、常山郡公に進爵し食邑1000戸を加増された。
  • さらに河橋の戦いに従い大丞相府長史兼大行台尚書を拝命。稽胡の帥で夏州刺史の劉平が叛くと謹は衆を率いて討平し、大都督・恒并燕肆雲五州諸軍事・大将軍・恒州刺史を除された。入って太子太師となり、9年(543年)再び太祖の東征に従い別に柏谷塢を攻めてこれを拔いた。
  • 邙山の戦いで大軍が不利になると、謹は麾下を率いて偽って降ったふりをして道の左に立ち、斉神武軍が勝ちに乗じて追撃し油断していた隙に、追騎が過ぎ去るのを待って背後から撃った。敵は大いに驚き、独孤信もまた背後で兵を集め斉神武軍を撃ったため大軍は全うされた。
  • 12年(546年)尚書左僕射・司農卿に遷る。侯景が帰順して援兵を求めた際、太祖は李弼に応じさせようとしたが、謹は「侯景は少なく兵権に慣れ、その情は測りがたい。厚く礼遇して変を観るべきで、すぐに兵を遣わすのは良くない」と諫めたが、太祖は聞き入れなかった。まもなく大行台尚書・丞相府長史を兼ね、兵を率いて潼関に鎮し華州刺史を加えられ、秬鬯一卣・圭瓚を贈られた。まもなく司空を拝命し食邑400戸を加増、15年(549年)柱国大将軍に進位した。
  • 斉が帝を称すると太祖はこれを征し謹を後軍大都督とし、別に一子を塩亭県侯(食邑1000戸)に封じた。魏恭帝元年(554年)雍州刺史を除された。
  • 梁の元帝が侯景を平定したのち江陵で即位し、密かに斉と通じ侵犯を謀った。その兄の子の岳陽王詧は当時雍州刺史であったが、元帝が兄の誉を殺したことを恨んで讐を結び、襄陽に拠って来附し王師を請うた。太祖は謹に衆を率いて討伐させ、青泥谷で餞した。長孫倹が謹に「蕭繹(元帝)はどのような計を用いるだろうか」と問うと、謹は「漢水・沔水に兵を耀かせ長江を渡って一気に丹陽に拠るのが上策、郭内の民を城内に移し子城を守り援軍を待つのが中策、羅郭に拠って守るのが下策」と答えた。倹が「繹はどれを用いるか」と問うと謹は「必ず下策を用いる」と答えた。理由を問われると謹は「蕭氏は江南を保って久しく、中原の事に力を割けず、我らには斉の患いがあるため兵力を分けられないと考えている。繹は臆病で謀に乏しく多疑少断で、民も遷ることを嫌い邑居に恋着するため下策を用いるだろう」と述べた。
  • 謹は中山公護(宇文護)と大将軍の楊忠らに精騎を率いさせ先に江津に拠らせ退路を断たせた。梁人は外城に木柵を築き周囲60里に及んだが、謹が至ってこれを包囲、梁王はしばしば城南に兵を出したが謹に敗れ、16日で外城は陥落。梁主は子城に退いたが、翌日太子以下を率いて面縛して降り、まもなく殺された。男女10余万人を虜にし、府庫の珍宝(宋の渾天儀、梁の日晷、銅表、魏の相風烏、銅蟠螭跌、径4尺・囲7尺の大玉など)と輿輦・法物を得て献上し、軍は私せず、蕭詧を梁主に立てて凱旋した。
  • 太祖は自ら謹の邸に至り宴を開き、奴婢1000口と梁の宝物、金石糸竹の楽一部を賜り、新野郡公(食邑2000戸)に別封した。謹は固辞したが太祖は許さず、司楽に「常山公平梁歌」10首を作らせ工人に歌わせた。
  • 謹は自ら久しく権勢を持ち位望が隆重であることから優游閑適を願い、常乗の駿馬と着用の鎧甲を献上した。太祖はその意を察して「今なお巨猾が平らげられていないのに、公はどうして一人で身を保とうとするのか」と言って受けなかった。六官制が建てられると大司徒を拝命した。
  • 太祖が崩じ孝閔帝がまだ幼く、中山公護が顧命を受けたものの名位がまだ低く、諸公はそれぞれ執政を望んで服さなかった。護はこれを深く憂え密かに謹に相談した。謹は「私は丞相の格別のご厚遇を蒙り情は骨肉に等しい。今日のことは必ず死をもって争うべきです。衆議の場で決めれば公は辞退できないでしょう」と答えた。翌日、諸公が会議した際、謹は「かつて帝室が傾いた時、丞相(太祖)は匡救を志し袖を振るって戈を執り、国祚を中興させ万民を安んじられました。今、上天は禍を降し庶寮を捨てられましたが、嗣子は幼くとも中山公は太祖の子に等しく顧託を受けており、軍国の事は理として彼に帰すべきです」と語気鋭く述べ、衆は皆恐れ動いた。護は「これは家の事だ、私のような凡愚がどうして辞退できよう」と答えた。謹は太祖と同輩の身分でありながら護に礼を尽くして進み出て「公が軍国を統理されるなら、私どもはよりどころを得ます」と言い再拝すると、衆はこれに迫られて再拝し、これによって議は定まった。
  • 孝閔帝践阼の際、燕国公(食邑1万戸)に進封され太傅・大宗伯に遷り、李弼・侯莫陳崇らとともに朝政に参議した。賀蘭祥が吐谷渾を討った際、謹は遠隔から軍を統率し方略を授けた。
  • 保定2年(562年)謹は老齢を理由に上表して致仕を願ったが、詔で「昔、師尚父は年90を超え、召公奭はほぼ百歳になっても勤めて自ら息まなかった。今、元悪未だ除かれず九州は一つにならず、公を舟檝として艱難を済おうとしているのに、二公の雅操を忘れて謙譲されるとは」と却下された。3年(563年)4月、高祖は三老五更の礼を敬い、謹を三老に立てようとし、有司に礼を整えさせた。謹は固辞したが許されず延年杖を賜り、高祖は太学に行幸して食事を供した。三老の入門時に皇帝は門屏の間で拝礼し、三老はこれに答拝、太師晋公護が階を昇って几と席を設け、三老は南面して師道をもって座した。皇帝は跪いて醬豆を設け自ら肉を切り分け、三老が食し終えると皇帝は跪いて杯を授け酳(すすぎ)を行った。皇帝が「天下の重責を担いながら政治の要を知らない、教えてほしい」と問うと、三老(謹)は「木は縄を受ければ正しくなり、君主は諫言に従えば聖となる。古の明王聖主は皆虚心に諫言を納れ得失を知った」「国の本は忠信にある。食と兵を去っても信は失ってはならないと古人は言う」「国を治める道は必ず法による。法は国の綱紀であり、正すべきは賞罰にある。功あれば必ず賞し、罪あれば必ず罰すれば善は日々増し悪は日々止む」「言行は立身の基、言えば行いが伴うべきで、三たび思い九たび慮ってから行動すべきだ」と答えた。皇帝は再拝してこれを受け、三老も答拝して礼は成った。
  • 晋公護の東伐に際し、謹は老病であったが護は宿将旧臣としてなお同行を請い戎略を諮問した。軍が還ると鐘磬一部を賜り、天和2年(567年)安車一乗を賜り雍州牧を授かった。3年(568年)在位のまま薨去。享年76。高祖自ら弔問し、譙王倹に喪事を監護させ、繒綵1000段・粟麦5000斛を賜い、本官に使持節・太師・雍恒等20州諸軍事・雍州刺史を加贈、諡は文。葬儀には王公以下が郊外まで送り、太祖廟庭に配享された。
  • 謹は智謀があり事上に長け、名位が重くとも謙譲を旨とし、朝参の往来も従者は2、3騎に過ぎなかった。朝廷の軍国の務めの多くは謹に諮られ決められ、謹もまた知能を尽くして帝室を輔弼し、功臣の中でも特に信任され終始一貫して人の非難を招くことがなかった。子弟の教育には常に静退を旨とし、年齢も長寿を保ち礼遇も隆重で子孫は繁栄し当時これに並ぶ者はなかった。子の寔が跡を継いだ。

于寔(字賓実)――于謹の子として太祖に仕える

  • 寔は字を賓実といい、若くして温厚で、弱冠前に太祖の幕府に入り潼関・廻洛城の征討に従軍。大統3年(537年)弘農回復・沙苑の戦いに従い、前後の功により万年県子(食邑500戸)に封じられ主衣都統を授かった。河橋の役では先鋒として陣を陥れ、軍が還ると内殿となり通直散騎常侍を除され太子右衛率に転じ都督を加えられた。
  • さらに太祖に従い邙山で戦い、11年(545年)東宮で侍講を命じられた。侯景の帰順に際し寔は諸軍とともに援け九曲城を平定して大都督に進み、儀同三司に遷り散騎常侍を加えられた。14年(548年)尚書を除され、この年太祖と魏太子の西巡に従い、隴山上に功臣の位を刻石し次第に鐫勒された際、寔は開府儀同三司にあらかじめ擬され、15年(549年)に授けられた。まもなく滑州刺史を除され特に鼓吹一部を給わり、公に進爵し食邑200戸を加増された。
  • 魏恭帝2年(555年)羌の東念姐が部落を率いて反し吐谷渾と結んで辺患となり、大将軍豆盧寧を遣わして討たせたが平定できず、寔に討たせるとこれを破った。太祖は手書で労い奴婢100口・馬100疋を賜った。孝閔帝践阼の際、民部中大夫を授かり延寿郡公(食邑2000戸)に進爵、さらに大将軍に進位し勲州刺史を除され、入って小司寇となった。
  • 天和2年(567年)延州蒲川の賊の郝三郎らが反し丹州に迫った際、寔は衆を率いて討平し三郎の首を斬り雑畜1万余頭を得た。延州刺史を除され、5年(570年)燕国公の爵を襲い柱国に進位したが罪を得て免職、まもなく本官に復し涼州総管を除され、大象2年(580年)上柱国を加えられ大左輔を拝命。隋開皇元年(581年)薨去、司空を追贈され諡は安。
  • 子の顗は大象末に上開府・呉州総管・新野郡公。顗の弟の仲文は大将軍・延寿郡公。仲文の弟の象賢は儀同三司で高祖の娘を娶った。寔の弟の翼は別に伝がある。翼の弟の義は上柱国・潼州総管・建平郡公。義の弟の礼は上大将軍・趙州刺史・安平郡公。礼の弟の智は初め開府として宣帝の旨を受け斉王憲の謀反を告発し、その功で斉国公に封じられ柱国・涼州総管・大司空を拝命。智の弟の紹は上開府・綏州刺史・華陽郡公。紹の弟の弼は上儀同・平恩県公。弼の弟の蘭は上儀同・襄陽県公。蘭の弟の曠は上儀同で恒州刺史を追贈された。

史論

  • 史臣曰く、賀抜岳の変事は突発的に起こり、侯莫陳悦は併呑を志したため、その時将士の心は離れ士気も定まらなかった。寇洛は散乱した軍を撫緝し仇讐に抗して全軍を保って帰還させ、敵に付け入る隙を与えなかった。徳を量って身を処し、覇王を輔けて糾合する謀を建てたその功は決して小さくない。李弼と于謹は佐時の略を懐き聖運に遇い、股肱として艱難を耐え、帷幄で謀を尽くし方面で功績を挙げた。巨川を渡る舟や大厦を支える棟梁に擬えられ、附随して名を成したのみならず、その材と謀によって自ら勝ち取ったものである。于謹は高齢にして高徳、名声も高く三老の礼を上庠で受け、司楽に功績を歌わせたが、常に満盈を戒めとし覆折を憂えた。君子でなければどうして国を保てようか。