周書卷十四 列𫝊第六 賀拔岳

出自と爾朱榮への出仕

  • 岳、字は阿斗泥。若くして大志を抱き施しを好み士を愛した。初め太學生となり、成長すると左右に馳射し驍果で人に優れ、兵書を読まずとも自ずと兵法に通じており識者はこれを異とした。父兄とともに衛可孤を誅した後、廣陽王元深は岳を帳内軍主とし彊弩將軍を表した。
  • のち兄勝とともに恒州を鎮めたが州が陥落し爾朱榮に投じ、榮は厚遇し別將とし、都督としてしばしば帳下で謀議に加わり榮の意にかなうことが多く重んじられた。榮は兵馬が盛んになると元天穆と謀り朝廷を匡そうとし岳に策を問うと、岳は「非常の事を立てるには非常の人を待たねばならない、将軍の士馬は精強で位望も高い、義旗を挙げ叛を伐ち主を匡せば何ぞ勝たざらん」と答え、榮と天穆はこれを丈夫の志だと称えた。

孝莊帝擁立と万俟醜奴討伐

  • まもなく魏の孝明帝が急死し、榮は変事を疑い兵を挙げて洛陽に赴き岳に甲卒2000を配し先駆けとした。河陰に至り榮が朝士を殺害した際、齊神武(高歓)は榮に帝位に就くよう勧め左右も多く同調したが榮は決しかねた。岳は「将軍は義兵を挙げ姦逆を除いたばかりでまだ功も定まらぬのに逆にこの謀を為せば禍を速めるだけ」と諫め、榮もまもなく悟り孝莊帝を擁立した。岳はさらに齊神武を誅して天下に謝すよう勧めたが、左右の「高歓など言うに足らぬ、後の働きに期すべき」との言に榮は従った。定策の功により前將軍・太中大夫を授かり樊城郡男に叙せられ、榮の前軍都督として葛榮を滏口で破り平東將軍・金紫光禄大夫に遷ったが事に坐して免ぜられ、まもなく復職。元顥平定に従い左光禄大夫・武衛將軍に転じた。
  • 万俟醜奴が僭称し関中が騒然となると榮は岳を討伐に遣わそうとし、岳は密かに兄勝に「醜奴は秦隴の兵を擁し強敵だ、功なければ罪責が及び、平定できても讒言が生じるだろう」と語り、「爾朱氏の一人を元帥に立て岳がその副となればよい」との案で勝の賛同を得て榮に願い出て許された。榮は爾朱天光を使持節督二雍二岐諸軍事・驃騎大將軍・雍州刺史とし、岳を持節・假衛將軍・左大都督とし、征西將軍代郡侯の莫陳悦を右都督としてともに天光の副とした。
  • 赤水の蜀賊が道を塞ぎ天光の軍は2000に満たず、潼關に至って天光は難色を示したが、岳は「蜀賊など烏合の衆に過ぎぬ」と述べ、天光は全てを岳に委ね、進軍して渭北で賊を破り馬2000匹を得て軍威大いに振るった。天光と岳は雍州に進み榮はさらに援軍を送った。醜奴は自ら大軍を率い岐州を囲んだが、岳は輕騎800で渭を渡り県令2人を捕らえ甲首400を得て賊将尉遲菩薩を挑発、菩薩は歩騎2万を率い渭北に至り、岳は数十騎で水を隔て応対したが菩薩配下の省事が無礼な応答をしたため弓で射殺した。
  • 翌日、岳は伏せた精騎を密かに配置したうえで敗走を装って賊を渭水南岸から誘い出し、横岡に伏兵を設けて急撃し、馬を下りた者は殺さぬよう号令すると賊は皆馬を捨て、俘虜3000人・馬をほぼ全て獲て菩薩を捕らえ、降卒1万余と輜重を収めた。醜奴は岐州を捨て安定に北走し平亭に柵を置いた。天光と岳は「秋の涼を待つ」と偽って敵を油断させ、醜奴が諸軍を分散させて岐州北の細川に農営させた隙を突いて夜襲し太尉侯元進の柵を陥し元進を捕らえ、俘虜は解き放ち他の柵も悉く降った。
  • 岳は涇州に急行し刺史俟幾長貴を降し、醜奴は高平に向かおうとしたが岳は翌日平涼の長坑で醜奴を捕らえ、高平城中で蕭寶寅も捕らえた。賊の行臺万俟道洛は牽屯山に敗走ののち略陽の賊帥王慶雲に投じたが、天光と岳は水洛城でこれを攻め慶雲・道洛を捕らえ、残兵1万7000人を悉く生き埋めにした。三秦・河渭・瓜涼・鄯州は皆帰順し、夏州の宿勤明達も再叛したが岳が討ち捕らえた。

關中の経略と非業の死

  • 天光が元帥でありながら岳の功が最も多く、散騎將軍を加えられ伯に進爵し食邑2000戸、都督涇北豳二夏四州諸軍事・涇州刺史を授かり爵は公に進んだ。天光が洛陽に入ると岳に雍州刺史を行わせ、建明中(530-531年)驃騎大將軍を拝命し食邑500戸を増され、普泰初年(531年)都督二岐東秦三州諸軍事・儀同三司・岐州刺史に除せられ清水郡公に進封され食邑は合わせて3000戸となり、侍中・後部鼓吹・開府儀同三司・尚書左僕射・隴右行臺を兼ね高平にとどまった。2年(532年)都督三雍三秦二岐二華諸軍事・雍州刺史を加えられた。
  • 天光が齊神武を討とうと軍を率いる際、岳に計を問うと岳は「関中を鎮めて根本を固め、精鋭を分けて諸軍と合勢するのが上策」と答えたが天光は従わず果たして敗れた。岳は隴から軍を下し雍に赴き天光の弟顯壽を捕らえ齊神武に呼応、魏の孝武帝の即位で関中大行臺を加えられ食邑1000戸を増された。永熙2年(533年)孝武帝は密かに岳に齊神武打倒を命じ、自ら心血を刺して岳に寄せた。岳は都督二雍二華二岐豳四梁三益巴二夏蔚寧涇二十州諸軍事・大都督の詔を受けた。
  • 齊神武は岳兄弟の功名を忌み、岳は懼れて太祖(宇文泰)と協力を約した(経緯は太祖本紀にある)。岳は自ら北境に赴き辺防を整え、平涼西界に牧馬と称して軍を布いた。費也頭万俟受洛干・鐵勒斛律沙門・斛拔彌俄突・紇豆陵伊利らはいずれも帰順し、秦・南秦・河・渭四州刺史も岳の節度を受けたが、靈州刺史曹泥だけは応じず齊神武と通じた。
  • 3年(534年)岳は侯莫陳悦を高平に召しこれを討とうとして悦を先鋒としたが、悦は齊神武の密旨を受けて岳を図ろうとしていることを岳は知らず、かねて悦を軽んじていた。悦は岳を営に誘い兵事を論じるふりをして婿の元洪景に岳を幕中で斬らせた。朝野は皆これを痛惜した。侍中・太傅・録尚書・都督關中三十州諸軍事・大將軍・雍州刺史を追贈され諡は武壯、王の礼をもって葬られた。子の緯が嗣ぎ開府儀同三司を拝命、保定年間(561-565年)岳の旧徳を録され緯は爵を霍國公に進められ太祖の娘を娶った。

侯莫陳悦

  • 侯莫陳悦は若くして父に従い駞牛都尉となり、長じて西方で狩猟を好み騎射を能くした。牧子の乱に際し爾朱榮に帰し、榮は府長流參軍に引き立て大都督に累遷させた。魏の孝莊帝の初め征西將軍・金紫光禄大夫を除せられ柏人縣侯に封じられ食邑500戸。爾朱天光が西征する際、榮は悦を天光の右都督とし本官のまま西伐に従い戦功は賀拔岳に次いだ。
  • 鄯州刺史・車騎大將軍・渭州刺史を経て白水郡公に進爵し食邑500戸を増され、普泰中(531-532年)驃騎大將軍・儀同三司・秦州刺史となった。天光が洛陽に赴く際、悦は岳とともに隴を下り雍州に至り天光の弟顯壽を捕らえ、魏の孝武帝の初め開府儀同三司・都督隴右諸軍事・秦州刺史を加えられた。
  • 悦が岳を殺すと岳の兵は服さず、悦は逡巡して撫納しなかったため隴右に遷ったが、太祖は兵を率いて討ち悦は敗走した(経緯は太祖本紀にある)。悦の子弟と岳殺害の共謀者8、9人は皆誅されたが、中兵參軍豆盧光だけは靈州に走り、のち晉陽に奔った。悦は自殺した。岳の死後、悦は精神が恍惚として常のようでなく、常に「うたた寝すれば岳の夢を見る、兄はどこへ行こうとするのか、私を離さない」と言い、これによりますます不安になり破滅を招いたという。