周書卷十三 列𫝊第五 文閔眀武宣諸子

文帝・孝閔帝・明帝・武帝・宣帝の諸子(世宗・孝閔帝・武帝・別伝ある齊王憲を除く)をまとめて記す巻。多くは建徳三年前後に王に進爵し各地の総管・刺史として出鎮したが、大象年間(579-581年)に隋の楊堅(文帝)が輔政・簒奪する過程でほとんどが殺害され、国を廃絶された。文帝の子は13人、孝閔帝の子は1人、明帝の子は3人、武帝の子は7人、宣帝の子は3人。

年表(28件)

文帝諸子の系譜

  • 文帝には13人の子があった。姚夫人が生んだのが世宗(のちの明帝、別に本紀あり)。後宮の妃が生んだのが宋獻公震。文元皇后が生んだのが孝閔皇帝(別に本紀あり)。文宣皇后叱奴氏が生んだのが高祖(武帝、別に本紀あり)と衛刺王直。歩干妃が生んだのが齊王憲(別伝あり)。王姫が生んだのが趙僭王招。後宮の妃たちが生んだのが譙孝王儉・陳惑王純・越野王盛・代奰王達・冀康公通・滕聞王逌・齊煬王(別伝あり)である。

宋獻公震

  • 宋獻公震、字は彌俄突。幼くして聡明で10歳で孝経・論語・毛詩を暗誦し、のちに世宗とともに盧誕から礼記・尚書を学んだ。
  • 大統16年(550年)武邑公に封じられ食邑2000戸、魏文帝の娘を妻に迎えたが同年薨去。保定元年(561年)使持節・柱國大將軍・少師・大司馬・大都督・青徐等十州諸軍事・青州刺史を追贈され、宋國公に進封、食邑を合わせて1万戸に加増された。
  • 子がなかったため世宗の第三子寔を嗣子とした。寔、字は乾辯。建德3年(574年)王に進爵、大象年間(579-581年)大前疑となったがまもなく隋文帝に殺害され、国は廃絶した。

衛刺王直

  • 衛刺王直、字は豆羅突。魏恭帝3年(556年)秦郡公に封じられ食邑1000戸。武成初年蒲州に出鎮し大將軍を拝命、衛國公に進み食邑1万戸。保定初年雍州牧となり柱國に進み大司空に転じ、梁州總管として出鎮した。
  • 天和年間(566-572年)、陳の湘州刺史華皎が州を挙げて帰順してきたため、直に綏德公陸通・大將軍田弘・權景宣・元定らの兵を率いて援軍に赴くよう詔があったが、陳の将淳于量・呉明徹らと沌口で戦って敗れ、元定は江南に投降、直は罪により免官された。
  • 直は高祖の同母弟で浮薄・詭計・貪欲・狠戻な性格であり、晉公宇文護が政を執ると護に阿って帝(武帝)に叛意を抱いた。沌口の敗戦で免職されたことを恨み、帝に護の誅殺を求めその地位を得ようとした。帝はもとより護を誅す意があり直と謀ったが、護が誅されると帝は齊王憲を大冢宰とした。直はもとの望みが外れた上に大司馬を求め兵権を握ろうとしたが、帝はその意図を見抜き「兄弟には長幼の序があり、弟が兄の下位にいて何が悪いのか」と言い、直を大司徒とした。
  • 建德3年(574年)王に進爵。高祖は直の邸を東宮としようとし直に自ら住まいを選ばせたが、直はどの官署も気に入らず廃寺の陟屺仏寺に住もうとした。齊王憲が「弟の子女は成長しているのだから広い住居が要る、この寺は狭い」と諫めると、直は「わが身すら容れられぬのに子女など論じるものか」と答え、憲は怪しんだ。
  • 直はかつて帝の狩猟に従い隊列を乱し、帝は衆人の前で鞭打った。これ以来直の恨みは深まり、帝が雲陽宮に行幸した隙に京師で挙兵して肅章門を攻めたが、司武の尉遲運が門を閉ざして拒み(経緯は尉遲運伝にある)、直は入れず逃走した。荆州で捕らえられ庶人に落とされ別宮に幽閉されたが、なお異志を抱いたため誅殺され、子の賀貢・塞響・賈祕・津・乾理・乾璪・乾悰ら10人も殺され、国は廃絶した。

趙僭王招

  • 趙僭王招、字は豆盧突。幼くして聡明で多くの書を読み文を能くし、庾信に文学を学んだが詩文は艶麗に過ぎた。魏恭帝3年(556年)正平郡公に封じられ食邑1000戸。武成初年趙國公に進み食邑1万戸。保定年間柱國を拝命し益州總管として出鎮。建德元年(572年)大司空を授かり大司馬に転じ、3年(574年)王に進爵し雍州牧を兼ねた。
  • 4年(575年)大軍東征では後三軍總管、5年(576年)高祖の東征に従い歩騎1万を率いて華谷から出撃、齊の汾州・并州を攻略しその平定に功があり上柱國に進み、東夏平定後は齊王とともに稽胡討伐の行軍總管となり賊将劉沒鐸を捕らえて斬った。稽胡平定後、宣政年間(578年)太師を拝命。大象元年(579年)5月、洺州襄國郡食邑1万戸を封地として与えられ就国。
  • 2年(580年)宣帝が病篤いため招ら5王(陳・越・代・滕王ら)が召還されたが到着前に帝は崩じ、隋文帝が輔政となった。隋文帝は招らに殊礼を加え入朝の際不趨・剣履上殿を許したが、隋文帝が周の帝位を奪おうとしていることを察した招は密かにこれを図り社稷を守ろうとし、隋文帝を邸に招いて寝室で酒宴を開いた。招の子員貫・妃の弟魯封・近習の史胄らは佩刀して左右に控え、帷幕の間に武器を隠し後院にも壮士を伏せていた。隋文帝の従者は多くが閤の外にとどまり、楊弘・元冑・元冑の弟威・陶徹のみが戸の側に座した。
  • 招は佩刀で瓜を割いては隋文帝に勧めたが隋文帝は疑わなかった。元冑が異変を察して刀を手に踏み込むと、招は大盃で自ら酒を飲み、冑にも酒を勧め、さらに冑に厨房から漿を取ってこさせようとしたが冑は動かなかった。滕王逌が遅れて到着し、隋文帝が階を降りて迎えた隙に元冑は「形勢が甚だ怪しい、速やかに退出されよ」と耳打ちし、隋文帝は逌らと座に戻ったのち間もなく辞去した。
  • 後にこの謀反が発覚し、その年の秋、招とその子德廣公員・永康公貫・越擕公乾銑・弟の乾鈴・乾鏗らが誅殺され、国は廃絶した。招の著した文集10巻が世に伝わった。

譙孝王儉

  • 譙孝王儉、字は侯幼突。武成初年譙國公に封じられ食邑1万戸。天和年間大將軍を拝命しまもなく柱國に遷り益州總管として出鎮。建德3年(574年)王に進爵。
  • 5年(576年)東征では本官のまま左一軍總管となり永固城を攻略、并州・鄴の平定に進み大冢宰を拝命。この年稽胡が反したため行軍總管に任じられ齊王憲とともに討伐、天柱と自称する胡帥が河東に拠っていたのを攻め破り首級3000級を斬った。
  • 宣政元年(578年)2月薨去。子の乾惲が嗣いだが、大定年間(581年)隋文帝に殺害され、国は廃絶した。

陳惑王純

  • 陳惑王純、字は堙智突。武成初年陳國公に封じられ食邑1万戸。保定年間岐州刺史を除せられ開府儀同三司を加えられ、突厥に赴き皇后を迎え大將軍を拝命、柱國に進み秦州總管として出鎮、陜州總管に転じ鴈門公田弘を督して齊の宜陽等9城を攻略した。
  • 建德3年(574年)王に進爵。4年(575年)大軍東征では前一軍總管となったが帝の病により班師。5年(576年)大軍再征では前一軍として歩兵2万を率い千里徑を守り、并州平定後上柱國に進み并州總管を拝命。宣政年間雍州牧に除せられ太傅に遷る。
  • 大象元年(579年)5月、済南郡食邑1万戸を与えられ就国。2年(580年)入朝したが、隋文帝が専政して宗室を除いていく中、純とその世子謙、弟の扈公讓・讓の弟議らが殺害され、国は廃絶した。

越野王盛

  • 越野王盛、字は立久突。武成初年越國公に封じられ食邑1万戸。天和年間王に進爵。4年(575年)大軍の齊討伐では後一軍總管、5年(576年)再征では所領を率いて齊の高顯等数城を攻略、并州平定後上柱國に進み鄴平定に従って相州總管を拝命した。
  • 宣政元年(578年)入朝して大冢宰となる。汾州の稽胡帥劉愛邏干が反した際は諸軍を率いて討平。大象元年(579年)大前疑に遷り太保に転じ、この年豐州の武當・安富二郡食邑1万戸を封地として与えられ就国。
  • 2年(580年)入朝したが、その秋隋文帝に殺害され、子の忱・悰・恢・懫・忻ら5人も殺され、国は廃絶した。

代奰王達

  • 代奰王達、字は度斤突。果断で騎射を善くした。武成初年代國公に封じられ食邑1万戸。天和元年(566年)大將軍・右宮伯を拝命し左宗衛に転じ、建德初年柱國に進み荆淮等十四州十防諸軍事・荆州刺史として出鎮した。
  • 在州中の政績を高祖が手詔で褒めた。管下の灃州刺史蔡澤が収賄で訴えられ贓状は明白であったが、その勲功の重さゆえに処刑すれば法を曲げることになるとして密かに担当官に精査させ按劾したが、事はついに不問となり、達はその処理の経緯を口外しなかった。周到で慎重な人柄であった。
  • 達は質素倹約を好み、食事は品数を重ねず、侍女も数人にとどめ皆粗末な絹の衣を着せ、資産も営まなかったため国に蓄えがなく、左右がこれを諫めると達は「君子は道を憂え貧を憂えず」と応じた。
  • 建德3年(574年)王に進爵し益州總管として出鎮。高祖の東征では右一軍總管。齊の淑妃馮氏は齊後主に寵愛されていたが齊平定後捕らえられ、帝は達が女色に近づかない人柄であることから馮氏を特に達に賜った。
  • 宣帝即位後上柱國に進み、大象元年(579年)大右弼を拝命、この年潞州上黨郡食邑1万戸を封地として与えられ就国。2年(580年)入朝したが、その年冬隋文帝に殺害され、世子執・弟の蕃國公轉らも殺され、国は廃絶した。

冀康公通

  • 冀康公通、字は屈率突。武成初年冀國公に封じられ食邑1万戸。天和6年(571年)10月薨去。子の絢が嗣ぎ、建德3年(574年)王に進爵したが、大象年間(579-581年)隋文帝に殺害され、国は廃絶した。

滕聞王逌

  • 滕聞王逌、字は爾固突。若くして経史を好み文章を能くした。武成初年滕國公に封じられ食邑1万戸。天和末年大將軍を拝命、建德初年柱國に進み、3年(574年)王に進爵した。
  • 6年(577年)行軍總管として齊王憲とともに稽胡を征討し、賊の渠帥穆友らを破り首級8000級を斬り、河陽總管に転じる。宣政元年(578年)上柱國に進み、その年の陳討伐では元帥・節度諸軍事を拝命。
  • 大象元年(579年)5月、荆州新野郡食邑1万戸を封地として与えられ就国。2年(580年)入朝したが、その年冬隋文帝に殺害され、子の懐德公祐・祐の弟箕國公裕・弟の禮・禧らも殺され、国は廃絶した。逌の著した文章は世に広く伝わった。

紀厲王康(孝閔帝の子)

  • 孝閔帝の子は1人、陸夫人が生んだ紀厲王康である。字は乾定。保定初年紀國公に封じられ食邑1万戸。建德3年(574年)王に進爵し、利始等五州・大小劒二防諸軍事・利州刺史として出鎮した。
  • 康は驕慢で規律を欠き、僚佐の盧奕らを信任して密かに武器を修め謀反の意を抱いた。司録裴融が諫めたが康は聞き入れず融を殺した。5年(576年)康に死を賜る詔が下り、子の湜が嗣いだが大定年間(581年)隋文帝に殺害され、国は廃絶した。

明帝諸子

  • 明帝には3人の子があった。徐妃が生んだのが畢刺王賢、後宮の妃が生んだのが酆王貞・宋王寔である(宋王寔についてはこれ以上の記載がない)。

畢刺王賢

  • 畢刺王賢、字は乾陽。保定4年(564年)畢國公に封じられ、建德3年(574年)王に進爵、華州刺史として出鎮ののち荆州總管に遷り柱國に進む。宣政年間(578年)大司空に入り、大象初年(579年)上柱國・雍州牧・太師に進む。
  • 翌年宣帝が崩じると、賢は強直で威略があり隋文帝が宗社を傾けるのではと危惧しその言葉が漏れたため、まもなく殺害され、子の弘義・恭道・樹孃らも殺され、国は廃絶した。

酆王貞

  • 酆王貞、字は乾雅。初め酆國公に封じられ、建德3年(574年)王に進爵。大象初年大冢宰となったが、のち隋文帝に殺害され、子の濟隂郡公德文も殺され、国は廃絶した。

武帝諸子

  • 武帝には7人の子があった。李皇后が生んだのが宣帝(別に本紀あり)・漢王贊、厙汗姫が生んだのが秦王贄・曹王允、馮姫が生んだのが道王充、薛世婦が生んだのが蔡王兌、鄭姫が生んだのが荆王元である。

漢王贊

  • 漢王贊、字は乾依。初め漢國公に封じられ、建德3年(574年)王に進爵、柱國を兼ねる。大象末年(580年ごろ)隋文帝が輔政となると人心に順うため上柱國・右大丞相に進められ表向き尊崇を示されたが実権はなく、諸方策が定まるとまもなく太師に転じ、隋文帝に殺害され、子の淮陽公道德・弟の道智・道義らも殺され、国は廃絶した。

秦王贄

  • 秦王贄、字は乾信。初め秦國公に封じられ、建德3年(574年)王に進爵、上柱國・大冢宰・大右弼を歴任したが、まもなく隋文帝に殺害され、子の忠誠公靖智・弟の靖仁らも殺され、国は廃絶した。

曹王允・道王充・蔡王兌・荆王元

  • 允、字は乾仕。初め曹國公に封じられ、建德3年(574年)王に進爵。充、字は乾仁。建德6年(577年)王に封じられた。兌、字は乾俊。建德6年(577年)王に封じられた。元、字は乾儀。宣政元年(578年)王に封じられた。
  • 元・兌・充・允はいずれものちに隋文帝に殺害され、国は廃絶した。

宣帝諸子

  • 宣帝には3人の子があった。朱皇后が生んだのが靜皇帝(別に本紀あり)、王姫が生んだのが鄴王衍、皇甫姫が生んだのが郢王術である。

鄴王衍・郢王術

  • 衍は大象2年(580年)王に封じられた。術も大象2年(580年)王に封じられた。衍・術ともに隋文帝に殺害され、国は廃絶した。

史論

  • 史臣は論じる。昔の識者は、周が五等の制(封建)を立て800年続いたのに対し秦は郡県制を敷いて二世で滅んだと言い、得失の跡はたどれても是非の理は互いに対立し、旧制を守って変えられぬのは、遠い昔を貴ぶ論者が現実の変化に適応する道を極め尽くさなかったからだと述べる。
  • そもそも五等の制は商周以前に行われ郡県の制は秦漢以後に始まったもので、時代が違えば風俗の厚薄も異なり場所が違えば用捨も異なる。時宜に応じて制度を定めることこそ政治の要諦であり、民情を観て教えを立てることこそ国を治める長策である。封建も郡県も、賢能を選び名を異にしても実は同じ帰結を目指す。安泰なときは共に治め危難のときは共に憂う関係は、礼義がなければ風俗を敦くできず甲兵がなければ乱を鎮められない。斉・晋は礼を守って国運が衰えても立ち直り、温嶠・陶侃は権位を退いても王朝の綱紀が緩めば再び立て直した。周の列国は一姓ではなく晋の群臣も一族ではなかったが、勢いの重い者は功を立てやすく権の軽い者は節を尽くしにくいというだけのことである。
  • 太祖(宇文泰)が関右を平定したときは日々の政務に追われ、人臣の礼を尽くすのみで藩屏を立てる暇はなかった。晉公護(宇文護)が輔政するに及び一族を諸方に配し、宗室の長幼が皆権勢を握り、天下は太平とは言えぬまでも国家は盤石の固さを得た。高祖(武帝)は専横の禍を鑑みて護を除いたが藩屏の遠謀を忘れ、外には寵位を与えながら内には猜疑を結び、この時すでに帝業の基には朽ちた土台の兆しがあった。
  • 宣帝(宣皇)が即位すると凶暴の評判が立ち、まず自らの一族を刈り取り公族を遍く削り黜けた。叔父の親等・同母の続柄であっても、文武の才で衆に慕われ敵に威を示す者ですら当年に卿士の地位を辞し諸侯の列に落とされ、勢いは匹夫に等しくなった。このため権臣はその機に乗じ謀士はその隙に乗じて、周の帝位はまたたく間に奪われ王侯は燎原の炎より速く滅ぼされた。悠久の昔にもこれほどの惨事は聞かない。もし枯れ木を倒すがごとく容易であったとすれば、それは藩屏を失っていたからに他ならない。
  • もし宣帝が周・漢の制度に倣い聖哲の術を鑑み、賢戚を内外に分置し軽重を計り親疎を配して首尾相持ち遠近相用いる体制を築き、勢位は危難を扶けるに足り権力は乱を為すに足りぬ程度にとどめていれば、たとえ幼帝が世を継いでも社稷は久しく安泰であったろう。何ゆえ外戚の一族ごときに神器を窺わせてしまったのか。