洛生王と称された勇将
- 少くして任侠を好み武芸に優れ、壮年には大度があり施しを好み士を愛したため、北州の賢俊が皆彼に交わったが才能は洛生に及ばなかった。葛栄が鮮于修礼を破ると、洛生は漁陽王に任じられ徳皇帝の遺衆を統率し、時人は「洛生王」と呼んだ。洛生は将士の統率に優れ帳下に驍勇の士が多く、攻戦にはその鋭鋒に敵う者なく、常に諸軍中で戦功一番であった。爾朱栄が山東の豪傑を集め晋陽に移した際、洛生も虜中にあり、栄はその名声を聞き心中これを憚ったが、まもなく栄に殺害された。保定初、使持節太保柱国大将軍大冢宰大宗伯大都督并肆等十州諸軍事并州刺史を追贈され莒国公(邑五千戸)に封じられ、諡は荘。
- 子の菩提は斉神武に殺害され、保定初、大将軍小宗伯大都督肆恒等六州諸軍事肆州刺史を追贈され莒国公を襲爵、諡は穆。晋公宇文護の子至が後を継いだ。
- 至(字は乾附)は初め崇業公に封じられ後に穆公の爵を襲ったが、建徳初、父護の誅殺に伴い、詔により衛王直の子賔が穆公の後を継いだ。三年、至の爵は追復された。
- 賔(字は乾瑞)はまもなく衛王直の誅殺に連座した。建徳六年、改めて斉王憲の子広都公真が爵を継いだ。真(字は乾禎)は宣帝の初め、誅殺され国は除かれた。